パチンコ依存症は怖い病気です 手記

パチンコ依存症 手記

 

 

  はじめに

 

私は、パチンコ依存症です。四十五歳で手に入れたわが家も、ローンの支払いが滞って六十八歳にして失いました。借金地獄と精神の不安定が長年つづきました。家族も、わたしが退職直後の、六十歳の時に失いかけ一人生活がつづきましたが、どうにか妻は戻ってきてくれました。

 これから書きつづける内容は、わたしの大切な、失った人生の話しです。けど、その失った人生を、わたしはいま取り返そうと必死に生きています。それはパチンコ依存症からの脱却ということです。パチンコ依存におちいっている方が読めば、そのほとんどの人がわたしと同じ悩みや苦しみを経験されていると思います。わたしの叫びにうなずき、ときには笑い、ときには一緒に涙を流してくれると信じています。これからわたし語ることは、パチンコ依存症患者の症状のことです。風邪を引けば鼻水やら咳がでます。認知症になれば物事を忘れたり、重くなると徘徊をしたりといった症状がでます。がんになれば痛みも出てくるでしょう。しかしパチンコ依存症の症状は、痛かったり鼻水が出たりといった、それとすぐわかる症状は現れません。だから、家族にも仲間にもなかなか発見しづらい、厄介な病気なのです。再発を繰り返す病気です。そしてとても危険な、というのは自分だけが抱え込んでいる病気ではなくて家族はもちろんのこと知人友人にも迷惑をかけ、もしかしたらまったく関係の無い人まで害を与えてしまうといった、危険な病気だといえます。わたしの、経験からもそれはいえます。

 

両親とあそんだ記憶 

  

 わたしがギャンブル依存症になったのは、環境や人のせいにはできませんが、母親のお腹の中に居たころから父親の花札賭博や、両親そろってのパチンコかよいの影響があったのかもしれません。物心ついたころパチンコ屋に連れて行かれ、玉が入るたびに一個の銀玉をもらい、それが12個たまると森永のキャラメル一箱と交換ができるのです。六十五年ほど前のパチンコ屋で、パチンコの玉を拾いまわる自分の姿をはっきり思い出すことができます。いまだにこの記憶は消えることがありません。よほど楽しかったのでしょうね。両親とどこかへ遊びに行ったという記憶は、はまったくといっていいほどありませんでしたから、親からもらう銀玉の喜びがいまだに続いているということなのでしょうか。父親はタンス職人でした。筋骨隆々の腕で桐タンスを作り上げていく、その姿を見ながらラジオから流れてくる、浪曲や落語、赤銅鈴之助などを聞くのが毎日の夕方のわたしの、幼いころの日課でした。怖い話しがラジオから流れてくると、父親は「わっ!」と声を上げわたしを驚かせました。怒ると怖い父親で、一度ならずもゲンノ(かなづち)を振り上げながら、泣きながら逃げるわたしを、路地裏まで追いかけてきたりしました。父親は腕のよい桐タンス職人でした。東京の下町に、空襲にも焼けずに仕事場があり、それなりの一軒家で生活をしていました。年末には、もちをついたりしました。

 

また、夏には蚊屋を吊ってその中で花札賭博をしていました。裸電球の下で、タバコの煙がむんむんする中でパッシパッシと花札を打つ音が、寝ているふとんの中まで聞こえてきました。勝負に勝って帰る職人は、わたしが起きていると「ほら、こづかいだ」といっていくらかを置いていきました。確かにそれはわたしにとっては、数少ない思い出のひとつです。人がたくさんいて、楽しんでいる姿を見るのがわたしも大好きでした。しかし、大人たちは楽しんでいるのではなく、勝負をしているのだと気がついたのはわたしが大人になってからです。そんな生活が続いたのはわたしが小学四年生までで、高価な桐タンスを作るという仕事も減り、華々しい生活のあとは生活費がなくなったのでしょう、家を売り払い、いくつかの借家を転々として、最後に父親が六十三歳で肺がんで亡くなったのは東京近郊の、海辺の県営住宅でした。

 父親は「典型的な遊び人」とも言える人でした。お酒を飲まない人でしたがギャンブル依存症でした。家を売り払う間際には、母親は仕事で収入があるとそのお金を屋根裏に隠したりしましたが、父親はそれを探し当て、いろいろな遊びのお金にしてしまいました。落語の世界を地で行った父親でもありました。大島つむぎの着物を着て吉原へ遊びに行き、帰りには、裸同然で帰ってくる始末でした。そんな話を、母親や姉たちによく聞かされました。家を売ってさあ引越しというとき、父親はさびしそうに和室で横向きになって寝ていたのを思い出します。中学生だった兄は、寝転んでいる父に毛布をかけてあげていました。なぜ、いまだにそんな光景がはっきり目に浮かぶのか見当がつきません。母親にも父親にも、経済的素養がまったく無かったのでしょう。両親は、とくに父親は宵越しの金を持たない生活に徹していたように思いました。

 

両親がギャンブル依存症だと、その子どもたちは両親と遊んでもらった記憶というのがほとんどないと断言できます。それは、ギャンブルに使うお金は血なまこになって工面して作っても、それを家族のために使おうとはほとんど考えないからです。ギャンブルに行くだけのために働き、質屋や借金に明け暮れるのです。わたしは父親との数少ない思い出に、浅草の馬券売り場に手をつないで行ったことがあります。たわいの無い会話で歩きながら「なぜ草(くさ)競馬というの?」と聞いたことがあります。「それは、臭いからだ」と聞いて、笑って手をつないで行きました。今でもしっかり覚えています。また、私はよく母親の手を引かれ質屋にも一緒に出かけました。両親との思い出というと、こういった貧しいことばかりのようです。長女は小さいころ日本舞踊を習っていました。そのときが一番いいときだと、母親に聞いたことがあります。

 

   借金地獄へ

 

 ギャンブル依存症は常にその目的のためにだけで、生きています。パチンコをするにはお金がなくてはできません。わたしがパチンコ依存症になった大きな原因はこうです。わたしが三十代後半のある日のことです。駅前のパチンコ店の、歩道側から見える台の足元には、玉の入った千両箱が山積みになっていました。興味がわいて、わたしは足の向くままパチンコ屋に入り、たった一つ空いていた台に座りわけもわからず打ち始めました。わけがわからないというのは、何でこんなにも玉が出るのだろうという疑問でした。すると、そんなにお金を使わないうちにドラムが回転し、7が三つそろって銀玉がどっと出始めました。わたしは台が壊れたのだろうと、隣の人に「この台壊れてしまったのでしょうか」と聞きましたが、隣の人はむっつりして答えてくれませんでした。出る玉にあせって受け皿から玉がこぼれ落ちたりして、どうやってとめたらいいかわからなくなりパニックになりました。そこへ店員さんが箱を持ってきて、一件落着でした。しっかりとそのときの様子を覚えています。

ビギナーズラックでした。これが、パチンコ依存症に突き進んでいく、大きなきっかけとなりました。それまでもパチンコはしていましたが、もしここで大負けをしていたら、人生は少し変わっていたかもわかりません。1980年代初頭に出始めたフィーバー機です。玉がドラムを回転させる穴に入るとドラムが勢いよく回転し始め、7が3つそろうと一気に千五百個ほどの銀玉が出る新しい機種でした。それが十回も続けば五~六万円にもなります。これでわたしは味をしめてしまい,残業が無い日の、会社の帰りの途中下車で週にパチンコかよいがはじまりました。その前までは、休みの日とか時間があるときにパチンコ屋に出かけていましたが、この大勝ちですっかりパチンコにはまってしまいました。そして、この新機種が出始めて、わたしのようなパチンコ依存症患者は急激に増えていったと思います。

 

70万人のギャンブル依存症

 

2017(平成29)年の厚生労働省の調査では、20歳から74歳までの成人の70万人がギャンブル依存症になっていて、月に使うお金は5万8千円という数字が出されています。その多くがパチンコ・スロットに使われているといいます。普通のサラリーマンが毎月6万円近くもギャンブルにつぎ込む、こうした異常な生活を平然とおこなっているのが、ギャンブル依存症患者なのです。全国のパチンコ店は一万六千軒あるといわれ、そのオーナーの9割が韓国人や朝鮮人といわれています。そして年間20兆円も売り上げがオーナー(経営者)の元に入っているといわれています。

 

韓国ではパチンコ産業 法律で禁止 2017年に全廃

 

韓国では、パチンコ店がコンビニよりも多い1万5千軒もあったといいますが、2006年に非合法化され、全廃されました。日本円で年間3兆円もの売り上げがあったにもかかわらず全廃されました。台湾では、現在はパチンコは非合法になっているといいます。韓国のパチンコ禁止の理由は、パチンコ依存症により借金苦の自殺者急増と、パチンコ業界と政府の癒着がマスコミに大々的に取り上げられたからです。日本では、このニュースはほとんど取り上げられませんでした。週刊誌やネット上では「なぜ韓国でパチンコが全廃できたのに、日本ではできないのか」といった批判の声が多くあがりました。しかし、大きなニュースにもならなかったのは、日本のマスコミに対して、パチンコ業界が使う宣伝費が多額にのぼっているからだとだといわれています。また、パチンコ業界で作られた法人の「パチンコチェーンストア協会」に国会議員が多くアドバイザーとして名を連ねているからだとも言われています。2018年6月現在で野田聖子氏ら自民党議員24人が「政治分野アドバイザー」として名を連ねています。日本維新の会は七人、国民民主党からは9人もの国会議員が名を連ねています。警察がパチンコ店の許可、監督を行うということも、わたしは不思議だと思います。

また、パチンコ依存症者がサラ金などに手を出すことで、高額な利息を取ってサラ金業者が潤うことを狙っていました。とくに、数多く在ったサラ金業者の多くは、韓国人や朝鮮人の経営者だったといわれています。パチンコで利益を上げ、サラ金で上げた利益を、韓国や朝鮮に流れているといわれています。現在でも50数億円の日本のお金が朝鮮に渡っているといわれています。パチンコで負けてサラ金から高い利息を払って借金をする、このような “儲けの構造 ”を、借金地獄におちいったパチンコ依存症患者が作り出しているのです。韓国では、パチンコ店が非合法化され、また禁止されたことで急激に、景気がよくなったといいます。それもそのはずでしょう、パチンコに使われていた数兆円ものお金が、パチンコ以外の消費に使われたからです。韓国でパチンコが全廃されたとき、日本でもパチンコ業界が壊滅的なダメージを受けると指摘していたジャーナリストや学者がいました。しかし、まったくと行っていいほど、問題にはされませんでした。わたし自身も、そんなニュースに触れた記憶がありませんでした。

日本では、韓国でパチンコが全廃された翌年の2007年に、さまざまな批判もあってギャンブル性の高い機種が禁止されました。いわゆる“爆裂台 ”です。出るときには、3万発もの銀玉が出ます。銀玉ひとつが4円ですから、12万円にもなります。わたしも何回かこのような台に当たりました。こういった台が規制されました。また、貸金業法の改正で(いわゆるサラ金)融資額が年収の三分の一に制限されました。パチンコ依存症者はパチンコでも勝てなくなり、サラ金からも借りられなくなりで、依存症から脱却できた方も多かったようです。日本のパチンコ業界は、それまで年商30兆円だったものが20兆円に減少しました。

 わたしは、それでもパチンコを打ちつづけました。

 

   娘が「また来てね」と

 

 私は、ビギナーズラックで大勝して以来、毎日のように途中下車して駅前のパチンコ店かよいをしました。顔なじみもできました。土曜・日曜日は家の近くのパチンコ店に

 

ギャンブル依存者数

 2017年 厚生労働省調査

 生涯で依存症を疑われる状態になった人  320万人 直近では

70万人 月に5万8千円を消費

 2013年では依存症を疑われる人は536万人だった。(大きな差は統計のとり方の違いだと説明されている)

 

出向きました。国道沿いに大型パチンコ店がいくつもでき始めました。勝った日の翌日には、どうしてか必ずと言っていいほど負けました。勝った翌日は、心もうきうきしてパチンコ店に行きました。わたしのこづかいでは毎日パチンコ店に行くのは限度があります。そして家では落ち着きがなくなり、子どもたちと遊んであげることもなくなりました。ウイークディは会社の帰りにパチンコ店にいき、休みの日には釣りに行ってくると噓を言ってパチンコ店にいっていました。子どもとのスキンシップもなくなりついに末の娘から、出勤のとき「また来てね」といわれて、大きなショックを受けたことがあります。確かに、出張も多く家に帰らない日が続くことはありましたが。

 

パチンコ依存症の症状には、負けたときのひどいこころの落ち込みと、勝ったときの浮き浮きする高揚感が入り乱れて出てきます。そしてパチンコ店に出かけるときのうまく言い表せませんが、すでにパチンコ店にいて笑顔でパチンコを打っている、自分の妄想を見ているのでこのおかしな高揚感は、わたしはパチンコ依存症の合併症の一つだと思います。うつ病だったり躁うつ病だったり、少しずつ進行していきます。韓国で自殺者が増えた原因に、わたしはこのうつ病といった精神疾患が大きいと思います。うつ病、自殺をうながす病気でもあるからです。また借金はうつ病を引き起こす原因でもあります。

 

わたしもうつ病に 

わたしもうつ病になりました。原因の多くは仕事によるものですが、パチンコにはまり始めたときでもあります。新宿駅のプラットホームで、帰りの電車を待っているとき、急に頭の中が真っ白になって、倒れそうになりました。足を踏ん張って、持ち直しました。それから意識がはっきりせずに、頭がもやもや状態になりました。ただ早く帰って助けてもらおうと、この日は急いでうちに帰りました。1時間半の電車の中でどのように過ごしたのかも覚えていません。からだが小刻みに震えていました。寝床に入ったとたん、急激なふるえが来ました。そして、寒くてしょうがないのです。このときの精神の状態は、悪魔に奪われたというか、自分のからだではないような、とても気持ち悪いものでした。妻に助けて欲しいと訴えました。からだを支えて欲しいと思いました。優しい声をかけて欲しいと思いました。ただただ、寒くて布団の中で震えていました。

そして病院でうつ病の診断が下りました。人の顔をしっかり見つめられない、食事は半分も食べられない、タバコを持つ手がふるえる、からだが震える、死んでしまいたい、字が書けない、仕事が満足にできない、大好きなパチンコには行く気もしない、などの症状が起こりました。

わたしは、精神科にはもちろんのこと針灸治療が得意の東京中央区にある鉄砲洲診療所の漢方医(現在も診療してます)に通院したり、マッサージを受けたり長いこと治療をしました。数年苦しみ、対人関係が嫌になる後遺症にも何年も悩まされました。人前では、発言や本が読めなくなるといった症状もありました。会議などの、そこのところを少し読んでみてといわれると、逃げたくなりました。とにかく声が震えて、読めないのです。長いこと苦しみました。そういった症状を隠しながら生きてきました。パチンコ依存症と借金地獄とうつ病は、深い関係があると思います。 

 

パチンコ依存症の父親は、子どもにとっては朝の出勤のときしかいない存在なのです。子どもと遊んであげる時間は、パチンコに奪われていきました。自分の意思ではもうコントロールできないほど、パチンコ依存症が進行して行きました。がんで言えば、腫瘍がどんどん大きくなっていくことに似ています。しかし、まだこの頃は自分がパチンコ依存症だという病気には気付いていませんでした。というか、その存在すら知らなかったと思います。 

 

噓を言う

もらった小づかいは昼食費やタバコ代はかろうじて残しておきますが、大半はパチンコ代であっというまになくなってしまいました。重症です。子どもたちや家族で外へ食事に行くなどは、できなくなりました。お金が欲しいので、お金を得るために平気でどんな噓でも言いはじめました。明るくて、おおらかだった少年時代のわたしはどこへいってしまったのでしょう。パチンコ依存症は、性格まで変えてしまうのです。

 

  サラ金通い

 

 お金の感覚がなくなりました。お金はわたしにとってただの紙切れになっていきました。お金の価値がわからなくなったのです。パチンコ依存症者すべての人にいえることです。重症ではなくても、パチンコを始めたばかりの人でもお金の感覚が無くなります。一万円負けるのは、当然だと思うようになります。一万円もあったら、家族でおいしいものを何回も食べられます。そして三万円も財布に入っていたら、まだ二万円あるからいいやと思って使ってしまいます。まだ二万円あるからいいやという意味は、勤務時の昼食費や同僚たちとの交際費に当てなければならないお金だということです。絶対に残しておかなければならないお金なのです。

しかし気がつくとその二万円もなくなって明日の昼飯代はどうしようかと、憂鬱になってきます。妻からの借金は、とうてい無理に決まっています。年に何回かある遊び友だちとの飲み会も、妻から一万円手渡され外出する始末なのですから。もう、お金を持っていると、パチンコに行ってしまうということが、はっきり妻の自覚にインプットされていました。定期代も、何回も解約して足らない分に当てていました。職場では、定期は自分で購入するといって、現金をもらいました。さまざまな、現金を得る方法を考えるようになります。職場で積み立てていた労金も、自由に引き出せるということもわかって、ついには、残金ゼロになりました。“おれは江戸っ子、宵越しの金はもたねぇ ”など、うそぶいていました。

  

電車の広告で見たサラ金に行って、お金を借りようと思いました。サラ金は悪だということは理解していました。しかしまだ利息が高すぎるといったトラブルや返却不能で自殺とかいった大きな社会問題が表立っていないころです。アイドルの笑顔が大きく写っていた広告を見て、ちょっといってみるかと思いました。たしかにサラ金は悪であると頭で知っていました。しかし、アイドル(と言ってもわたしは芸能人についてあまり興味がなかった)が広告に出ているのだから、ほかの怪しいサラ金よりもましだろうと思いました。ニコッと笑った、アイドルのポスターにそそのかされたのです。いまだに芸能人を使って、テレビなどで宣伝しているのを見ますが、悪質だと思います。パチンコ依存症は自分の意思を自分でコントロールできないのですから、おいでおいでといわれたら、お金が欲しいので行ってしまいます。

わたしは、錦糸町駅前(東京)のサラ金に行きました。ドアを開けるとスチュワーデスのような制服を着た女性が笑顔で迎えてくれました。わたしは少し怖くなって、また来ますといってすぐ出てきてしまいました。ここでお金を借りてしまったら、わたしの良心は半分死んだのも同然だな、と思っていたからです。依存症になっていたのですから、良心という言葉は当たらないかもしれません。今思えば、サラ金に行かせたのも、パチンコ依存症者の大きな病気の症状のひとつだったのです。パチンコのためにお金は欲しい。もう善悪の判断というか常識をつかさどる神経が麻痺されてしまっているのです。自己責任という言葉は当たりません。病気になるには、原因が必ずあるのです。しかし、パチンコのためのお金は、もうサラ金にしか借りるほかなかったのです。パチンコをやるためには。ここで、わたしはパチンコ依存症から脱却しなければならなかったのですが、できませんでした。 

 

サラ金業者は、お金の使い道についてはまったくとやかくいわず、運転免許証を見せるだけですんなりと貸してくれました。最初に3万円を借りました。その翌日にはカードで会社近くや通勤沿線に設置されている専用の貸出機で簡単に十万円が手に入りました。びっくりしました。大金の十万円がとやかく言われずに、素直に出てきたのです。感動しました。喜びました。怖いです。今思えば、恐ろしいほど怖いことでした。病気で正常では無い神経状態なのですから、黙ってお金が出てくる機械は、まさに打ち出の小槌の機械なのです。人生をおかしくする機械なのです。パチンコのためのお金が、文句も言われずに出てくるのですからこんな楽なことはありません。このような経験をしたかたはたくさんいると思います。高い利息があるなどということは、どこかに飛んでいました。

そして、貸し出し限度額が5万円までであったのが、30万円になり50万円になっていきました。限度額五十万円で、五十万円借りたとしても毎月一万円返済すればいいことになっています。けど、一万円の金がないからサラ金にまで借りたわけなので、返金もとどこるようになって、別のサラ金に行き契約。セゾンカードなどあわせて七社から三百万円以上の借金まみれになりました。家族は知りようもありません。そのほか兄弟からも「わたしはがんになった。治療と返済のために二百万円貸してほしい」とせがみました。笑い事ではありません、わたしはお金が欲しくて必死でした。たしかに入院はしましたが良性の甲状線腫でした。それは私も知っていました。この甲状線種を、人のいい姉を「悪性のがん」と言って利用してしまったのです。死ぬ前に、借金を返済したいので貸して欲しいと。たしかに医師からは、細胞診断の結果、ステージ3の進行がんと診断されていました。わたしは気落ちして、甲状腺の専門医に診察を受けたところ、見て触診しただけで良性だといわれほっとしました。入院して手術はしました。

 

系列会社の転勤時には五百万円の途中退職金をもらいましたが、家に入れずにすべてが借金返済と飲み代とパチンコ通いでなくなりました。長男の大学進学のため銀行に出向き教育資金を借りるお願いをしましたが、すでに私がブラックリストに載っていて貸してはもらえませんでした。進学はあきらめさせました。家のローンを借りるときにはニコニコ顔での対応でしたが…。銀行を憎いと思いました。妻と子どもに、「借りられなかった」と報告したときは、気分は最低でした。それ以来、長男には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 

 

パチンコ依存症が40年以上つづく 

こんなパチンコ依存症として精神が朦朧としていた時代が20代後半から70歳まで四十年以上も続いたわけです。サラ金返済は、退職金が入ったときにまとめて返済したり、パチンコで勝ったときに多く入金したりしました。その繰り返しの人生でした。サラ金のキャッシュデスペンサー(自動支払機)にむかうわたしの姿が、商店街のウインドウに移ったのを見て「まるで幽霊かドラキュラのようだ」と思いました。確かに、つい最近まで、仲間から「ほほがこけて死んだような顔をしていた」といわれていました。あとでも話しますが、七〇歳を前に糖尿病やら大腸がんやら、立て続けに病気が表れて手術や治療の生活を余儀なくされました。また妻が戻り、規則正しい食生活をする中で、体重が15キロ以上も増えて、はけていたズボンもはけなくなり、うれしいやら悲しいやら複雑な気持ちです。わたし自身、やせていく自分に嫌気がさし、太りたいと思っていました。わたしの激やせは、大変な病気だとはちっとも思っていませんでした。伸張173センチメートルで55キロまで落ち込みました。それが3年前で、現在73キログラムにまで太ってしまいました。身もこころも健康になるということは、体重が増えるということなのですね。パチンコ依存症で健康まで破壊されていたのです。パチンコ依存症者が突然、病にかかったらそれはギャンブル依存症が引き起こした “合併症 ”と理解したほうがよいと思います。

 

 

家族よりも… 

わたしが七〇歳になった現在でも、忘れることのできない、悔やんでも悔やみきれない悲しい思い出があります。今でもその光景を思い浮かべると涙が出てきます。依存症なので病気なのですが、まだ若かったわたしは、パチンコなどいつでも止められると考えていました。病気だとは露ほども思ってなく、ただ家族や仕事や友人たちに迷惑をかけているな、との認識しかありませんでした。

 

県営住宅から部屋の広さが八〇平方メートル以上もある公団住宅に越しました。近くだったので家族みんなで荷物を抱え、わたしは借りてきたリヤカーに荷物を積んで汗だくで引いていきました。三人の子どもたちも大いに喜びました。家賃は月に十一万円でした。わたしは、団地自治会の役員になったりして、団地内でイベントなど積極的に企画して、交流を深めてきました。わたしも、新しい環境で楽しくやっていこうと思っていました。

越してしばらくして、末の娘の誕生日が来ました。わたしは、六時半には帰るといって会社に出かけました。夕方、子ども二人と妻は駅まで二十分ほど歩いて、わたしの帰るのを待っていました。ホームに着く電車からわたしが下りてこないか、歌を歌いながら見ていました。しかしわたしの頭は、パチンコを打つだけの考えしかなくなっていましたので、夢遊病者のように、わが家の駅の二つ手前の繁華街のある駅に途中下車をしてしまいました。子どもたちはいくつかの電車を見送った後、帰りました。妻は、「お父さん仕事で遅いのかな」と帰っていきました。翌日、末の娘は「歌をうたって帰ったんだよ」と言いました。わたしは、本当は家に帰りたかった、みんなが駅で待っているとは知らなかった。当時、携帯電話などなかったし。噓を行ったつもりはまったくありませんでしたが、体が勝手にパチンコ屋にむかってしまうのです。約束をしたという認識は、完全に飛んでしまっていたのです。噓を平然とついているのですが、噓をついていると言う認識は、その約束を破ったあとから襲ってくるのです。それは反省ではありません。悔しさと、馬鹿なことをやったと言う悔恨です。

 一緒に歌を歌って帰りたかった。手をつないで帰りたかった。

 翌朝、前にも書きましたが「お父さんまた遊びに来てね」といわれ、もうわたしは父親の資格はないと思いました。それから、毎日のように歌をうたいながら帰って行く三人の背中が見えてくるのです。すると、なぜか涙が出てきてたまらなくなります。もう、あの日は戻ってこないのだな、と思うと今でも涙だが出てきます。なのに、依存症は治りません。病気なので、きちんとした治療を行わなくてはいけないのです。この日の誕生日会のことはテープに保存されていて、子どもたちの声が残っています。わたしの宝物です。

 妻はわたしがパチンコ依存症だということを、わかり始めました。依存症対策の本を読んで、その本をわたしにすすめました。1999年3月に発行された『パチンコ依存症からの脱却』という本です。その本は、いま目の前にありますがどうしてか、開いて読む気にはなれないのです。その本を、たんなるハウツウ物だと決め付けていたのだと思います。脱却の方法なんて無いと思っていました。このギャンブル依存症が病気だとはっきり言葉に出したのは、たった3年ほど前のことなのです。ギャンブル依存症はアルコール依存や薬物依存とまったく同じ、病気ということです。薬物依存症やアルコール依存症については、はっきり「あれは精神が壊される病気だ」と断言していたはずなのに、認識していたはずなのに、パチンコ依存症については、認めようとしませんでした。だから、妻のそういう態度を嫌いました。「本など読まなくても、自分のことは自分がわかっている。パチンコはいつだってやめることができる」と文句をいいました。妻は、そのたびに黙ってしまいました。そうのです、「いつだって止められる」「もう二度とパチンコはしない」がわたしの口癖になって行きました。妻は、そのころから「パチンコをしなければいい人」という見方でわたしに接するようになりました。そしてわたしの前ではあまり笑わなくなりました。

 

わたしは、短気になりました。職場のマドンナだった妻を射止めたわたしは、優しい夫であり父親でしたが、怒りっぽくなり妻からも笑いが無くなり、成長していく子どもたちも、母親をいじめる嫌いなお父さんになりました。わたし自身、パチンコ依存症は病気だという認識を持つようになりましたが、はっきり妻に、「わたしのパチンコ依存症は病気だ」といったのは、本当に最近のことでした。それを聞いた妻は「はじめて、お父さんはパチンコ依存症を病気だといった」と、小さな声でいいました。

 

 妻が入院

 

 田舎に越すことにしました。公団住宅の家賃が傾斜家賃で、何年かあとには十三万円の家賃になります。ならばと、五十坪五百万円で買った土地に、家を建てることにしたのです。わたしが四十歳の時でした。子どもたちも上が高校生で、下は小学生二人の三兄弟。東京までの通勤も一時間半でいけます。日曜日には、元気な声で「お父さん、カブト虫がとれるところを見つけた」と息子から電話がかかってきました。釣りをしたり、子どもたちは田舎暮らしを楽しんでいました。けど、この引っ越しがよかったのかは判断できません。銀行と年金から借りたローンは、その金利が最も高いときでした。借りた額の倍近い支払いになりました。三十五年の長い返済が始まりました。サラリーマン金融サラ金)とまったく同じです。ボーナスを入れての返済は、厳しいものがありました。毎月10万円以上の返済は、当時はそれほど苦でもありませんでした。妻も元気で働いてくれました。

 

わたしも引越しを機に、パチンコをやめる決意をしました。しかし、その決意もせいぜい一ヶ月もしないうちに、きれいさっぱり忘れてしまいました。すでに引っ越した地域の数件のパチンコ屋が頭に入っていました。タバコのみが、禁煙会場などではまず最初に目をつけるのが喫煙場所と同じで、知らない土地に行った場合、まずどこにパチンコ屋があるかを見定めるのです。出張の多かったわたしは、仕事よりもまずパチンコ屋の発見が先でした。

 

新居に来て、三年程で妻が難病になりました。後縦靱帯骨化症(こうじゅうじんたいこっかしょう)という病名です。両足が痛くてしびれる、ちょっとした段差もあがれない、歩くのも大変といったものでした。しっかりしていた妻は、一緒になってから一度も泣き言をいったことがありません。夜中に新宿からタクシーで帰り寝ていた妻を起こしタクシー代を出させても文句のひとつもいいませんでした。あれが欲しいとか行きたいとかわたし対する要求も一切といっていいほどありませんでした。少なくてもそうわたしは思っていました。もっと甘えて欲しいという気持ちはありました。甘えのしなかった妻が「お父さん助けて」とメモに書いてわたしによこしたのです。

 それから、病院の通院が始まりました。あんまマッサージがしびれや痛みにいいと聞けば、遠くでも出かけました。ある病院では、子宮筋腫のせいだといわれ手術をしました。確かに子宮筋腫はありましたが、それを取っても妻の両足の痛みはなくなりませんでした。しびれも強くなっていきました。腰痛からくる痛みだという診断もありました。本当の、病気の原因を見つけるまで大変でした。 

しかし、パチンコ依存症はそのような生易しい病気ではありませんでした。妻が検査入院で痛みやしびれを我慢しているときでも、わたしはパチンコをしていました。夕食は、子どもたちだけで食べていました。ある日、高校、中学、小学生と大きくなった子どもたちは、わたしのいない日に、わたしを探していました。わが家から二十分ほど歩いた場所にパチンコ屋があります。私はそこに居ました。子どもたちは目星をつけ、そのパチンコ店にはいって行きました。子ども三人で、まして女の子二人と中学に入ったばかりの長男、どんなに恥ずかしかっただろう、勇気が必要だっただろうかと、いま思えばその子どもたちの気持ちを察して上げられなかった自分に、どうしようもない嫌悪を持ちました。子ども三人はわたしを見つけたのでしょう。わたしは、こどもたちがパチンコ店内を歩いているのを見つけました。一瞬からだを小さくしました。隠れようとしたのでしょうか。しかし、声をかけることも無くパチンコに夢中になっていました。子どもたちはそのまま帰っていきました。もし子どもたちが私のそばにきたら、なんと私は応えていたのでしょうか。なぜ子どもたちが、わたしがパチンコ店で遊んでいると、見当をつけたのかいまだにわかりません。そういえば、ドライブでパチンコ店の前を通るとき「おとうさんの目がきらきら輝いている」と小さかった息子と末の娘に、何度もはやされていたことを思い出しました。

 

   子どもからの財布のプレゼント

 

長女の高校生をかしらに、子ども三人はわたしに話があるといい、向き合いました。すると、わたしに誕生日祝いだといって財布をくれました。この財布に、パチンコに使わないお金を入れてくださいというものでした。わたしはこころで泣きましたが、パチンコ依存症は子どもに説教されても、優しい言葉を投げつけられてもすぐには治らない病気なのです。わたしは「わかった、努力する」としかいえませんでした。これも自分で噓をついているのを見抜いていました。三人の子どもたちはとてもよくできた子どもたちです。ぼろぼろになるまで、大切にわたしはその財布を使いました。

 

妻が助けを求めてから数ヶ月たったころ、大学病院の医師により、妻は難病だと診断されました。後縦靱帯骨化症(こうじゅうじんたいこっかしょう)という病名でした。わたしはうろたえ、仲人やら友人やら、親戚兄弟に電話をかけまくり、難病になったこと知らせ嘆きました。妻を知っている人たちは、電話の先であまり語ろうとはしませんでした。それでもわたしはパチンコを止めることができませんでした。妻五十一歳、わたしが四十八歳の時でした。

妻は大学病院で十二時間もの手術を受けました。丸い背骨の背中側を、うなぎの背を裂くように30センチほど切り取って、切り取った部分にセラミックの板を背骨代わりにボルトで固定してかぶせるという手術でした。背骨(脊柱管)の背中側をふっくらと少し広げる手術ということです。両下肢のしびれや痛みの原因は、背骨の中に発生したツララのようにとがった骨が中枢神経の束に当たって起きているということでした。だから、背骨の中を広くしてツララのような小さな骨が中枢神経に当たらないようにする手術ということです。ツララが傷つけている神経によっては腕のほうに障害が起きることもあります。ツララそのものを取り去る手術は、神経の束を持ち上げたりずらしたりしなければならないので、いまの医学ではとてもむずかしいということでした。うつ伏せになったままでの12時間にも及ぶ手術で、妻の顔は丸く膨れ上がっていました。

妻は、リハビリを含めて一年間も入院生活を送りました。何とか手術は成功し、はげしい痛みは少なくなりましたが、しびれや痛みは残りました。痛み止めなどのたくさんの薬の服用と、杖がなければ歩けません。七十三歳の今も難病以外は、高血圧の治療をしていますがそれなりに健康ですが、ほとんど外に出られなくなり家事がやっとの状態です。最近また、痛みが出てきて再手術の話があります。この病気にかかったのは、妻は私のせいだと思っています。急激なストレスで病気になったのだといいます。たった一度だけ、私にそう話しました。いろいろな借金がわかるにつれ、妻は私のパチンコ依存症によるストレスがたまっていったのです。とくに、妻に黙っていた姉からの借金がとてもこたえたようです。確かにわたしの責任はあったと思います。

後縦靱帯骨化症は難病で、その治療方法や発生の原因は研究段階で突き止められてはいません。しかし、ストレスのすべての原因はわたしにあります。ほかにはストレスの原因がないのですから、当然わたしに責任があります。最近は、頭に腫瘍が発見されガンマナイフという放射線治療のため2日間入院しました。難病対応ではないので、2割の自己負担でした。六万円以上の自己負担でした。国民健康保険なのであとで自治体から還付があります。わたしたちの自己負担限度額は、五万七千八百円です。その金額を超えた金額が2ヵ月後に還付されます。いずれにしても、現金を用意しなければならないので医療費負担は大変です。

 

 依存症はみな同じ 

 

 ダルクの琉球太鼓の演奏を聞いたことがあります。ダルクは覚醒剤、シンナーなど薬物依存症、アルコール依存症などの依存症から脱却を支援する施設で全国で活動していますわたしが見た演奏会では十七人のダルクの人が交代で、胸にしっかり抱えられた琉球太鼓を打ち鳴らし、そして激しく踊り、声を張り上げながらのすばらしい演奏を披露してくれました。自慢げに三年間アルコールを口にしていないと自己紹介した高齢のダルクメンバーもいました。3年もの間、酒を一切口にしなかったということは、大変な努力が必要なのです。パチンコを三年間やらなければ、パチンコ依存症は治ったも同然です。しかし、遊び心が出て、また一度パチンコをしてしまったらその反動は大きいものになって帰ってくるでしょう。アルコールや薬物も、わたしは同じだと思います。どの依存症者も、止め続けることがいかに大変かを知っているからです。再発したときの恐ろしさも知っているのです。自分は薬物依存症だという青年もいました。琉球太鼓を仲間と演奏することで、依存症を断ち切っていくのだといいます沖縄に行って太鼓を学んできたという青年もいました。依存症から脱却するために、すごい努力をしているのです。

 わたしはメンバーの方に「依存症から離れることができるのですか」と聞きました。返ってきた答えは「ほぼ一〇〇%近く回復しません。再発して戻ってくる仲間もいるということでした。一〇〇%近く回復しないということは驚きでしたが、「だから俺たちは依存症を断ち切るためにがんばっているのだ」という決意の現われだとわたしは感じました。仲間たちといるときだけが、依存症に負けていないときなのです。 

 

じゃあどうしたらいいの? 

ほぼ大丈夫だろうといって退所していった依存症患者がまた再発して施設に戻ってきたという話はよくあるという。もう、依存症者はパチンコ店や薬物やアルコールの無い世界で暮らすしかない死ぬ

 

わたしがパチンコで使った金額

 

 27歳から67歳までの40年間

 1ヶ月のパチンコ代金

  毎月8万円を浪費

 8万円×12か月=96万円

 96万円×40年間=3840万円

 

 単純計算でもわたしはこれまでパチンコに000万円近くも貢いでいたことになります。

 

 パチンコ業界の収入

 2015年 23兆2290億円

 2014年 24兆5040億円

 2013年 25兆90億円

   (パチンコ業界WEB資料室「レジャー白書から作成による

 

 平成29年(2017)の国の予算は97兆4547億円。このうち税金57兆7120億円2015年で見るならば、国民が納めた税金の40%ほどの金額がパチンコに消費されていることになる

 

しかないとわたしも何度も思いました。パチンコ依存症の相談件数も多くなっています。2017年(平成29)8月の「ギャンブル等依存症対策推進関係閣僚会議」の報告としてパチンコ依存症問題相談機関(リカバリーサポート・ネットワーク)に寄せられた件数は平成25年から28年まで年間2500~3000件だったものが29年3月以降、毎月400件もの相談が寄せられているということです。相談機関は非営利の法人ですが、パチンコ関係業界から多くの寄付が寄せられています。パチンコ業界は、依存症対策にも力を入れているということなのでしょうか。わたしには、よく理解できない現実です。

 

 

 

 

 40歳後半から新聞配達のアルバイト

 

 

わたしは、四十歳後半朝刊の新聞配達のアルバイトをしました。夏の暑い日は汗をかき冬の寒い日には手を凍えさせ、雨の日には新聞をぬらして怒られた、それを一年ほどつづました。オートバイのハンドルを握る手の、冬の寒さ・冷たさは忘れることができません。借金の返済やら、足らなくなった小遣の足しにダブルワークをしたわけです。バイト代は月に七万円ほどになりましたが、それを手に取るとパチンコ屋に嬉々として出向きその日のうちにバイト代がなくなることもありました。家計の足しにしようなどとは、考えも及びませんでした。借りていた配達用のオートバイは、駅までの交通手段として私用しつづけました。ガソリンは販売所のものを使っていました。もうめちゃくちゃな生活を送っていました。他人のものは、自分のものなのです。朝四時には配達で、寝るのは毎日十二時ごろ、体が持つわけ在りません。それを一年以上つづけてきました。げっそりとやせました。妻は「新聞配達はやめて欲しい」といっていました。背広を着て仕事に行っている人間が、新聞屋のオートバイに乗って出勤するのですから、嫌に決まっています。そして、朝4時ごろからごそごそやられていたのでは、ゆっくり眠ることもできません。パチンコ依存症は自分本人はもとより、身近な人への健康をも害しているのです。

 

ではわたしがこれまで使ったパチンコ(スロット)のお金はいったいいくらぐらいなのでしょうか。まったく、表のとおりです。二十七歳から六十七歳まで40年間で貢いだお金は、月8万円とすると一年で九十六万円、四十年間だと三千八四〇万円になります。けど本当は、もっとお金を使っていると思います。勝ったお金も結局は負けて取られているし、さらに借金、歌の文句ではありませんが退職金まで使っている、5千万円はゆうに超えているのではないでしょうか。借金苦になって、家族にもうとわれ、家も手放してでもパチンコをする。遊びではありません。まともではありません。れっきとした、パチンコ依存症という精神の病気がさせているのです。現在は、ネット依存症、買い物依存症スマートフォン依存症、ゲーム依存症などさまざまな依存症が発生しているといわれています。今の医学では精神疾患として位置づけされているのです。わたしは、お

 

依存症の医学的定義

ある物質あるいはある種の物質使用が、その人にとって以前にはより大きな価値をもっていた他の行動より、はるかに優先するようになる一群の生理的、行動的、認知的現象。

依存症候群の中心となる記述的特徴は、精神作用物質(医学的に処方されたものであってもなくても)、アルコールあるいはタバコを使用したいという欲望(しばしば強く、時に抵抗できない)である。

ICD-10精神および行動の障害臨床記述と診断ガイドライン1993、(F1x.2))

 

金の損失もそうですが、人生の損失も大きかったと思います。素敵な人生が、あったと断言できます。依存症の医学的定義(ICD10精神関係の国際疾病分類)によっても、「その欲望は、しばしば強く、時に抵抗できない」としています。わたしは、「しばしば抵抗できない」ではなく、依存症者のその欲望はまったくといっていいほど抵抗できないと思います。

 

 精神科医の森山成彬さんは「嗜癖(しへき=わたしの場合はパチンコ)でたくあんになった脳みそは、二度と大根には戻らないと患者に言っている。それくらい残る、脳の変化が。だから一生のたたかい、治療と思ったほうがいい」と話しています。ギャンブルをやめるには専門家の治療、回復プログラムに参加していくしかないのです。専門医による助けが必要なのです。妻はわたしに何度も「病院に行ってください」と懇願しましたが、そのつどわたしは「いつだってやめてやる」とはねつけてきました。

覚醒剤中毒者と同じように、神経を患ったパチンコ依存症は一生治療をつづけないといけないのです。わたしはそれを理解し始めました、自分は病気と断定しました。妻はそれを聞いて、喜びました。「やっと病気だと気付いてくれました」と。わたしが六十歳を過ぎてからの話です。森山医師は“一億円使った患者もいる ”と話しているようです。

パチンコ業界の収益というと、二〇一六年で一店舗二十九億四一三五万円、粗利益は五億五八八九万円になったということです。パチンコ業界全体では二十三兆二二九〇億円にもなっています。十年前には日本の予算の三分の一に当たる三十兆円を越す売り上げがあったということです。(「パチンコ業界WEB資料室」から)とにかく、計算方式が違うということもありますがカジノや競馬の売り上げと比べてもダントツにパチンコ業界の売り上げのほうが多いのです。ラスベガスが五千億円、日本の競馬業界が二兆円という数字も出ています。(ネット情報「ぱちとろ」)

韓国も台湾(非合法化)もパチンコ禁止の法律があって韓国ではすべてのパチンコ店が無くなりました。そういう意味では、この国の良心というか、国民を守る姿勢に共感しました。自殺者の発生やパチンコ依存症の増加、生活保護(韓国における)受給日には開店待ちのパチンカーの列が長くなる、そして収賄などの政界スキャンダルがでれば、パチンコを禁止するしかありません。わたしも、韓国を見習ってパチンコを禁止してほしいと議員さんたちに強くお願いしたいと思います。  

 

A新聞(二〇一八年5月)では、国民の反対を押し切ってカジノ法案を押し通そうとする政府に対して、「借金させのめり込ます」と報道していました。

カジノに預託金を払えば、負けてお金がなくなってもその場で借金ができるというものです。現在、パチンコ店にATM(現金自動支払機)を設置している店が多くなっています。わたしの地域のパチンコ屋にもATMが置かれています。一日三万円が引き出しの限度という言うことになっています。わたしは預金のある限り、と言っても数万円ほどしかいつもありませんが、負けてお金がなくなれば、必ず店内のATMを利用してしまいます。最初は、ためらいました。パチンコ店で、引き出しているのが通帳を見ればわかってしまうからです。パチンコ店のそばのコンビニにATM2台も置いてあるところがあります。パチンコ店から来る利用者の需要が多いのです。わたしは財布が空になると、030分で往復できるセブンイレブンまで行ってお金を引き出してきます。

パチンコ店で引き出しの限度額が決められているのは、無制限に引き出しができないようにするということです。パチンコ店のATM設置も問題になり、反対の声も上がりましたが決まってしまいました。パチンコ業界に対しての、政府の対応は寛大です。使い過ぎないようにと規制をしているようで、わたしは規制になっているとは思いません。ただ、世間の批判から目をそらせようとしているに過ぎません。預金をすべて使ってしまったら明日からパチンコに来なくなるからでしょうか?手のつけられなくなったパチンコ依存症者はどんなことをしてでも、お金を探しに、さ迷うのです。むずかしい言葉でいえば、いつも現金を持ってないと落ち着かないという、宿命ということでしょうか。

 

カジノ法案に反対している、大阪いちょうの会事務局次長の新川眞一さんはこのA新聞の報道の中で「借金問題を抱える人たちの中で、ギャンブルが絡む事案は非常に深刻です。借金のために、自死やさまざまな犯罪に結びつきます」(部分)と談話を出しています。

また、作家で精神科医の箒木蓬生(ほうき・ほうせい)さんはカジノ法案について「週三回の入場制限など、規制が無いに等しいものです。私はギャンブル依存症患者を多く診てきましたが、週一回のパチンコや競馬で依存症になった人はたくさんいます。最近の調査でもギャンブル依存症の有病率は成人の3・6%で、諸外国と比べてダントツです。日本にこんなにギャンブル依存症が多い最大の原因は、パチンコ・スロットです。ギャンブル依存症の8割がこれです」(部分引用)と話が掲載されていました。

そして「現状を放置したままカジノを作れば、ギャンブル依存症が増えることは明らかです。この病気はかかりやすいのに、治療は長期にわたる難しい病気です」とも話しています。

 

私は、前にも書きましたがパチンコ依存症にかかわる著作物には、ほとんど目を通してきませんでした。それは、「やめるときがきたらやめる、医者にかからなくてもできる」と思い込んでいたからです。さらに書かれている内容は、生意気なようですがおおよそ見当がついていたからです。見当とは「パチンコ依存症から脱却した人の体験談」とか「パチンコ業界の裏社会」とか、「パチンコ依存症から脱却する方法」とか、そんなハウツウ内容だろうと漫然と思っていました。そして「本など読まなくても、いつだってパチンコはやめられる」と高をくくっていたのだと思います。本を読むことはとても好きで、パチンコにはまっているときも、歴史者や時代物の小説に毎月5千円近くも投資していたときもありました。今こうやって専門家たちのはなしを読むたびに、もっと早く前向きに対応しておけばよかったな、と思っています。もちろんわたしもカジノには反対です。絶対という言葉は使うなとよく言われてきましたが、カジノができればさらにギャンブル依存症という、悲しみ苦しみを発症させる病人を “絶対”に出すからです。依存症が増えていくことは目にみえているからです。

 

 

サラ金の任意整理

 

 仕事はがんばってやりましたが、暗い顔になっていき、期待に応えられない仕事をいくつもしました。サラ金の返済は月に七万円ほどに膨らみましたついにわたしは、弁護士事務所へ相談に行きました。「任意整理をお願いしたい」と申し入れました。確かわたしが五〇歳を過ぎたころです。サラ金のキャッシュカードを弁護士に五枚ほど渡しました。当時、前後して借りていたサラ金業者は.プロミス、アコム武富士アイフルモビット、レイク、ノーローン、エイワなど中堅のサラ金すべてと言っていいほど借りまくりました。セゾン、JCBなど銀行系にも借りました。サラ金業者は運転免許証を見せるだけでお金を貸してくれました。何の苦労もいりませんでした。ただ、恥ずかしいだけです。なぜかというと、「他店で借りている金額はいくら」という問いに答えなければならないからです。過少申告しても、コンピューター時代にはそれは噓だとわかってしまいます。しかし、他店で借りていても新規の店では、やはりたやすく貸してくれました。

弁護士事務所のカードを受け取った担当者は、借りた元金だけ返せばいいこと、これまで払いすぎた金利を差し引くことなどで、毎月五万円ほど、三年間で返済することが決まりました。その間二ヶ月ほど返金はしないでいいということにもなりました。サラ金に返金しない喜び、借りに行かない喜びは、まるですっかり健康人になったような最高の気持ちになれました。 

そして当面五年間は、サラ金から借金ができないことがわかりました。今でも(七〇歳のわたし)サラ金から「借りませんか」と電話が来ることがあります。わたしは、貸してくれないことはわかっていましたが、貸してくださいというと、審査をしてから電話をしますと切りました。しばらくして先ほどの女性から「申し訳ありません、こちらからお願いしたのに残念ですが無理ということになりました」と返事がきました。わたしは“やっぱり”と少し残念がりました。

 サラ金とは関係なくなり、毎月きちんと弁護士事務所に入金しました。弁護士事務所で処理しているようで、その内容はわかりません。もうそれだけで安心でした。数年間がんばって返金すれば借金が無くなる、その思いはとても強いものでした。顔も少しは柔和になってきました。しかしパチンコ(スロット)依存症はますます強くなっていくようでした。性懲りも無く、給料日過ぎの一週間はパチンコ依存症がつづいていきました。サラ金債務整理のお金を返済するため、歯を食いしばってきちんと返済をつづけました。タバコもやめ、この返済期間はなんか充実しているようでした。妻は「パチンコしなければいい人」とわたしにいつもいっていました。この返済期間が、少し妻の信頼を回復してきたようにも思いました。「パチンコをやめればいい人」は、ほぼすべての依存症者にいえることだとわたしは思っています。しかし、この債務整理は、わたしがせっぱ詰まった挙句に思いついたもので、妻には伝えていませんでした。

 

 

 

ニコチン依存とパチンコ依存の重症慢性疾患の合併症

 

タバコといえば、パチンコ店でも交換ができるのですが、五万円を使ってタバコ一箱というときもあり、思いっきり自分を笑ってしまい、非常にむなしく思えました。ヘビースモーカーだったわたしは一箱二十本など半日でなくなってしまいました。2万円とか3万円を使って、途中交換して一箱のタバコが残った、これを「しょうがないか」と思わせる、依存症の病気、神経をおかしくする病気なのですね。しまいには、「タバコ一箱でも取り替えておいてよかった」と負けたことを肯定してしまいます。

休みで一日パチンコができる日は、どっかりと台に座ってタバコを、そばからそばから吸って夢中になってパチンコを打っていますと、煙草が空っぽに。二時間ほどで一箱のタバコがなくなっています。一日パチンコを打っていますと、タバコの三箱や四箱はすぐ無くなってしまいます。灰皿は山のようになって、隣に座ったパチンカーは男でも女でも顔をそむけていました。一昔前のパチンコ屋は、客の吸ったタバコの吸殻を店員が集めにきていました。いまは、わたしがタバコの煙を嫌い、隣に座ったスモーカーをにらんでいます。そして、パチンコ屋ではマスクも置いてあって、欲しい客には無料で提供してくれます。わたしはよくタバコの煙よけのマスクをもらっていました。禁煙コーナーもあって、集客のためいろいろ考えているようです。風営法では “パチンコ店内は利用者が快適に嫌悪感無く過ごせるようにしなければならない”といった指導内容も書かれています。

 

前日にパチンコで負けて、お金が無くなりタバコが買えないときがあって、駅前の落ちている吸いかけのタバコを拾って吸ったこともありました。そんなわたしを見ていた人がいたらなんと思っていたのでしょうか。恥ずかしいといった気持ち、こんな気持ちをも失わせてしまうのもパチンコ依存症の怖い症状のひとつです。わたしは、つい一〇年ほど前までは、完全なニコチン依存症でした。しけモクを拾って吸ったのは、そのとき、人生でたった一回きりの悪夢でした。さすが、道端でタバコを拾う行為は、二度とできませんでした。どうしてもタバコがなくなってしまったときは、仲間にもらっていました。しかし、これも何度もつづくと嫌がられます。いま、わたしは二回目の禁煙をしていますが、かれこれ禁煙歴10年になりました。

 

 

魔の年末年始

 

開店日や年末年始、連休はパチンコ店にとってはかきいれどきです。理屈ではわかっているつもりですが “出る台に座れば勝てる ”、と思っていますから、財布にたくさんお金が入っていると、なぜかパチンコが勝ちに勝って千両箱が山済みになっている妄想が始まります。妄想は、依存症の典型的な症状のひとつです。医学書や専門書から教示をいただかなくても、わたしの体験から導き出すことができます。

わたしは、いま、つくづくおもっています。重症のパチンコ依存症だったんだな、と。恥ずかしくて語れない内容ですが、依存症の症状のひとつとして話します。年末のボーナス支給日のことです。わたしは、支給されたボーナスを持って、わが家の在る駅に降りました。駅前に止めていた自家用車でそのまま、まっすぐ帰ればいいようなものなのに、なぜか途中の24時間営業のファミレスに入ってしまいました。気持ちは、パチンコ店です。妻や子どもに土産でも買って帰ればいいものを、ファミレスで朝までいて、パチンコに行こうとぼやっと考えていました。精神状態が正常に作用してなかったのです。コーヒーを飲み飲み、朝の来るのを待ちました。30万円以上の大金を持っているので、気前もよくなりハンバーグステーキなど食べていました。妻は心配していたと思います。

 

そして、開店の時間を待ってスピードを上げてパチンコ店に向かいました。自分が今何をしているのか、まったくの自覚がなくなっていました。並んで開店を待って、嬉々としてパチンコ店になだれ込んで行きました。それは、寒いさむい冬の日です。一日、パチンコを打ちつづけました。ボーナスが生活費だということはすっかり忘れていましたし、ローンの返済も通常月より多く入金しなければならないということも忘れていました。普通のひとはびっくりしますよね、こんなことを聞いたら。家族は何をやっているのだろうかと、心配して待っているのは当然ですし何よりもボーナスを待っているのですから。朝から、パチンコを打ちつづけました。一万円札が、それこそ飛ぶようにパチンコ台に吸い込まれていきました。そしてほとんどのお金がパチンコで負けてしまいました。信じないでしょうね。食事もせず、水も飲まず、タバコを口にくわえてパチンコを打ちつづける。わたしも、夢ではなかったかと思います。新居に越してからの話です。

 けど、それを平然と(見えるようですが、平然ではありません。なくなったお金を取り返そうと必死なのです。おでこには脂汗がにじんでいます)やってのけるのが、特徴的なギャンブル依存症の症状なのです。隣に座ったパチンカーとにこやかに談笑などしている余裕などないはずです。「出ませんねえ」「開店初日は出すでしょうけど、一週間もしたら出さなくなりますね」とかタバコを吸いながら話しているのです。さすが全額をつぎ込むことには躊躇があり、閉店も近くなりました。もうリベンジは期待できませんから、いくらかのお金を残してかえりました。 

私はすっかり憔悴しきって、完全に頭の中が真っ白になっていました。いまでも、当時の情けない自分の姿が浮かんできます。昨夜、帰らないということは妻に伝えていませんでした。わたしの仕事は出張が多く、妻はたぶん急な出張でもあったのだろうと思っているに違いありません。または、どこかで遊びつかれて帰れなかったかとか、思っていたのかもしれません。

 わたしの仕事は、いくつか変わって結婚してからは、業界紙の記者というか編集者と言うかそんな仕事でした。だから取材のために日本中飛び回っていましたし、それを一〇年ほどして事務所勤務になりました。妻の頭には、わたしの仕事も忙しいと認識していました。毎日パチンコで遅くなっても、仕事と思い込んでいました。(その半分は遊びだと、うすうす感じていたと思いますが)

 

わたしは家に帰る気力と勇気はありません。また、同じファミレスに入り呆然としていました。10分も走れば、新築間もないそれなりに暖かい我が家があります。もう動く気はありません。夜中のファミレスでブラックコーヒーを何倍も飲み、眠いはずなのに神経はなぜか高ぶっていたように思います。けど連絡しなくてはと、気力を出して店内の公衆電話に寄りかかり、ボーナスが無くなったと妻に告げました。帰っていいかとも聞きました。とにかく暖かいぬくもりが欲しかったのです。コーヒーのぬくもりではとても追いつくことも無いほど、神経がやられていました。妻は、「早く帰ってきてください」といいました。「迎えにきてくれないと帰れない」といいました。妻は車の運転ができませんので、無理なのは知っていました。やっとの思いで帰りました。

 家に帰ると妻と長女が、情けない顔をして玄関に立っていました。腕を組んで仁王立ちしていたと思います。わたしのいまのイメージはそうですが、本当は「どうしたのよ」の一言で家の中に入れてくれました。そのあとはどうなったか記憶にありません。ただ、ふたりが玄関に立っていただけです。決して優しい顔ではなかったと思います。

厚生労働省は依存症について「孤独の病気」「否認の病気」と定義しています。孤独とは、人との付き合いが苦手か一人のほうがいいとか、コンプレックスとかで孤独になっていくということで、否認とは本人がパチンコ依存症ギャンブル依存症)を認識するのが困難だ、ということです。ボーナスまでパチンコにつぎ込むなど、いろいろ理屈をつけても許されるはずがありません。早く、この病気を治さなければ最悪の事態が待っているような、わたし自身いつもその恐怖におびえていました。

ボーナス使い込み事件は、新居に越してすぐのことであり、妻がまだ健康で、難病になってない頃の話です。最近、そのファミリーレストランで昼食をしたさい「お父さん、ここだったね。電話したのは…」とぽつりと言いました。家出していた妻が帰ってきてくれてから、何回もこのファミレスで食事をしましたが、そんなことは一言もいいませんでした。わたしは、黙って食事をしました。忘れるはずはありませんよね。無様な自分の姿が、鏡を通して今でもみえてくるのですから。腹が立ちましたが、胸の中でごめんごめんと謝りました。

 

妻は難病になって、つらい思いをしています。妻は、病気になったことでわたしにすがろうとする。言葉や態度では決して表さない。けどなんとなくわかる、いやなんとなくではなくそうしなければならないのだと、わたしはわかっていました。嫌いで一緒になったわけではない、私のほうから一目ぼれをした、猛烈にアタックして結婚したわけだから、妻を助けるのは当然だし、妻の最も嫌がるギャンブイルをやめなければならない、それはわかっている、わかっているけど止められません。パチンコ依存症にとって、わかっているけど止められないということは勝手な言い方ですが、そのような自覚が始まったパチンコ依存症者にとっては、死ぬほど苦しいときなのです。自覚が無ければ、自分自身が苦しまないですむからです。「パチンコをしなければいい人」との妻の言葉をいつも思い出します。

「お父さん助けて」と妻に助けを求められたとき、本当にしっかりしなくてはいけなかったのです。わたしは仕事とパチンコで忙しい、大変な手術後、妻は一人で通院に一時間以上かけ電車バスを乗り継いで大学病院までいきました。手術当時は、まだ若く杖を突いて一人で移動はできました。妻は、病気になっても杖を頼りに学生時代の友人とドライブにも行ってきました。病院にはわたしが車で送っていかなければならないのに「一人で行けます」と、妻はでかけていきました。

平成三十年のいま、妻は七十三歳になり、もう一人では通院できません。

 

わたしは五十代になっても、パチンコに明け暮れていました。打ち出の小槌があるわけではなし、それでも六十歳になるまでは、家のローンも払いつづけていましたし、食べるものも何とかやりくりをしてしのいでいました。妻の医療費は、国の難病指定なのでほとんどかかりません。血圧が高いので、その治療費は七〇歳前までは三割負担で大変でした。小銭が中心の生活状況になってきました。わたしの毎月二十三日の給料日が過ぎ、しばらくするとお金がなくなります。妻は障害年金毎月四万円弱を受け取っていますが、その使い道は聞いたことはありません。わたしの金銭の要求に、そのお金も使われていたのだろうと思っています。本当に、つらい顔をして、お金が少しでもあれば、わたしの要求に応えてくれていたように思います。わたしに「生活費がなくなったので、お金をください」と言われた覚えは、ほとんどありません。ただ、じっと我慢しているタイプです。銀行振り込みになった給料も、わたしがカードを持っているので自由に引き出しができます。ローンや光熱費など銀行で引き落とされ、残ったお金のいくらかを妻に渡していました。毎月もらう給料は、手当てなど含めて40万円近くありました。真面目にやれば、裕福とまでは行かないにしても、苦労の無い生活は送れました。

  

借金先 どんどん重症化

 

 それでも、まだスロットの魅力から離れられません。サラ金からは借りられない、生活のため給料は妻に渡さなければならない。少し余分に小遣いをもらっても、すぐなくなってしまう。妻は、もう余分にはお金をわたしにくれなくなり、わたしは車のガソリン代とか飲み会といっては、少しづつ妻からお金を “ゆすって ”いました。本当にゆすっていたという言葉が、ぴったりの行動だったとおもいます。怖い顔をして「お金をください」という、妻はもうパチンコ依存症と見抜いているから、「え、もう無いの?何に遣うのよ」といいながら怖い顔をして数千円のお金をくれます。その嫌な顔を見ていると、わたしはもっと嫌な顔をしてみせる、「これでは足りない」とせがみます。夫婦の会話はお金だけという、状況でした。そのなけなしのお金をもらってパチンコに行ってしまう。勝って帰ると、わたしは、翌朝は機嫌がよくなっていますが、妻にお金

  

  

全国都道府県パチンコおよびスロット合計台数の順位(数字単位は100)  2016年度 警視庁保安課調

1位 大阪府   344.5台 

2位 東京都   330.9台

3位 愛知県   297.8台

4位 埼玉県   229.8台

5位 神奈川県  229.5台

6位 北海道    228台

7位 福岡県   205.2台

8位 千葉県   183.9台

9位 兵庫県   170.2台

10位 静岡県  137.6台

11位 茨城県  117.5台

12位 広島県    97台

13位 宮城県   92.9台

14位 栃木県   87.6台

15位 群馬県   86.3台

16位 鹿児島県  85.5台

17位 岐阜県   83.8台

18位 福島県    82台

19位 熊本県   81.4台

20位 新潟県   77.6台

21位 京都府   76.6台

22位 長野県   76.3台

23位 三重県   70.5台

24位 宮崎県   65.2台

25位 長崎県   65.8台

26位 山口県   63.6台

27位 岡山県   60.6台

28位 青森県   58.8台

29位 大分県   58.5台

30位 滋賀県   54.7台

31位 愛媛県   52.6台

32位 岩手県   50.3台

33位 香川県   36.3台

34位 石川県   45.3台

35位 秋田県   43.1台

 

36位 富山県   40.5台

37位 山形県    39台

38位 和歌山県  38.4台

39位 佐賀県   36.1台

40位 福井県   35.8台

41位 奈良県   34.9台

42位 高知県   32.6台

 

を渡そうとしません。妻も、ギャンブルで稼いだお金は、どんなにお金が無くても受け取る気はなかったようです。 

 

 

妻が一番苦しいとき、わたしも実は苦しんでいました。もう、パチンコには行きたくないのです。「わたしは病気だ」と思い始めていました。すっかり認識し始めていました。これほど妻を苦しめるぐらいなら、死のうといつも思っていました。床には就いて号泣した日も幾日もありました。パチンコの無い世界に行きたいといつも思っていました。けど翌日にはすっかり泣いたことなどを忘れ、朝食をとりながらスロットの攻略を考えていました。そうなのです、お金が無くて家に居るとき、まっすぐ家に帰りぼやっとテレビを見ているときいつもスロットの攻略方法を考えている始末でした。 

常に頭の中はスロットが回転しています。そして、リーチがかかり7が揃ってコインが七千円分どっと出てくるのです。それが連ちゃんしたりして、満足している姿なのです。

これもパチンコ依存症の典型的な症状のひとつです。いつも頭の中で、スロットが回っているのです。勝った夢を見ているのです。妄想だから負けるはずは無いのです。現実と夢の区別ができなくなっているのです。頭の中まで周りの人は見抜けません。噓をついてお金を要求する、そして暇なときの頭の中は、スロットの攻略方法を考えているのです。わたしがそうでした。

 

子どもたち

 

長女は4年生の美大を目指していましたが2浪してから短大に入り、すぐ結婚して家を出ました。長男も仕事の都合でアパートを借り、末の娘も二十二歳で結婚して家を出ました。

もう六十歳に手が届くかどうかという、分別のある年代のはずなのにパチンコ依存症という病はわたしを蝕んでいきました。依存症は進行性の病だったのです。ほとんど回復の見込みが無いほど進行していきました。毎月の給料はローン費用と生活費の最低金額しか妻に渡さなくなり、十円二十円の小銭まで妻は大切にしていました。わたしは、遊ぶお金がなくなって、子どもたちにも貸してくれるよう頼み込みました。妻には内緒だといって末の娘には二万円、長男には毎月のように一万円とか入金するようショートメールで催促しました。長男はこれで最後といいながらしばらく融通してくれました。長女には、結婚をしているということもありどうしても貸してくれとはいえませんでした。そして、長女はわたしたちに対して「離婚したらいい」と強く思っていると思っていたからです。後で私は理解したことですが、長女は一番母親を心配して面倒を見てくれました。

 

だんだんというか、当たり前というか、子どもたちからの借金も難しくなりました。次女は職場の上司と結婚し、仕事をやめました。相手は三十歳近くも上の男性でした。わたしは反対しましたが、とやかく言っても次女は聞き入れないと思っていました。妻は、「好きになったらしょうがない」といいます。もうそのときはお腹に子どもができていたようです。次女は、結婚してから大学に行き始め、生まれた子どもは一緒になって講義を聴いていたようです。赤ん坊のときから大学生でした。そして、しばらくは孫を連れて遊びに来ていて、孫娘もわたしになついてくれました。風呂で、大きな声で「おじいさんの時計」を歌ったりしました。

 

休みの日は家でごろりと横になるか、散歩に出かけます。散歩に出るときは、お金でも拾えたらいいな、といつも思いました。田舎の田んぼの中の散歩で、お金など落ちている環境ではありません。常にお金を得る方法を夢想しています。わたしは重症の依存症です。見境も無く、お金を得ることだけを考え、それが実現可能だと思ったらすぐ実行しよう、と思ったことはありますがわたしの壊れた神経であっても、他人を傷つけてもお金を得ようとは思いませんでした。夢想のなで、泥棒が成功した夢を何回も見ましたが、挙句は警察に捕まっています。    

本当に恥ずかしい話です。しかしわたしの壊れた神経では、噓をつくこと、借金すること意外は考え付かないのです。常にお金を得る方法を模索している、これもパチンコ依存症者の特徴的な症状のひとつといえます。

 

パチンコ依存症は怖い病気です。

 

平成二十九年の調べでは全国でパチンコ台数(店舗数ではない)が多い順に、大阪、東京、愛知、埼玉県というふうにつづいています。犯罪数が多い順位は大阪、兵庫、東京、愛知、埼玉県などとなっています。(表参照)犯罪者、パチンコ・スロットの少ない県として鳥取県島根県という事です。わたしは、パチンコ店の多い地域に犯罪者が偏っているのは、パチンコ依存者が多いか少ないかといった何らかの関係があると思っています。ある研究者は、断言はしていませんが犯罪が多い地域は外国人が多い地域だと指摘しています。警察の統計では確かにそういう状況も発生しています。

わたしが思うのにはギャンブル依存症アルコール依存症、薬物依存症やそうした依存症から起こるさまざまな精神の病気をもつ患者が、おおくの事件にかかわっているのではないかと考えています。わたしの壊れた神経はいつそのような犯罪を起こしてもおかしくない状態にあります。それは自分でもよくわかっているのです。二〇一六年(平成二八年)の犯罪の中で、パチンコ依存症ギャンブル依存症者がパチンコに使うお金欲しさに犯罪を起こした件数は2328件ありました。わたしは、あまりにも少ない数字だと考えます。2018年(平成29年)の刑法犯認知件数は9万15042人いました。(警視庁保安課統計)、認知件数とは検挙されない犯罪者も含まれているため単純な比較はできませんが、パチンコ依存症の犯罪者数は、どう見てもわたしは少なすぎるのではないかと思います。このうち重要犯罪・凶悪犯罪者はあわせて1万1372人いるということです。

とにもかくにも、パチンコ・スロット台数、犯罪者数、自殺の最も多い上位五つに、大阪、東京、愛知、埼玉、神奈川県がみんな入っています。パチンコ・スロット台数が多い地域は、犯罪者数も自殺者数も多いということが警察の統計でも明らかになっているのです。パチンコ店をなくしたら、たくさんの人が幸せになりどんなに住みよい日本になることでしょうか。

 

平成三十年五月に、「小学校職員が給食費六百八十万円を着服」というニュースが報じられました。それは滋賀県で起きた事件です。二十一歳の事務員ということですが、その着服の理由は「パチンコの金ほしさにやった」ということです。取り返そう取り返そうと、壊れた神経は横領事件まで引き起こしてしまったのです。人のお金を五万円盗んで、明日返せるからいいやということを考えてしまう。確かに勝つときはあっという間に三万円とか五万円とか勝ってしまう。パチンコ依存症者は、負けるとは思っていないのです。すでに何百万円と負けていても、お金の感覚がなくなっているので他人のお金も自分のお金と錯覚をしてしまうのです。このこともまともな神経を失ってしまっている依存症の典型的な症状のひとつです。

 

パチンコ店周囲1キロメートル以内にパチンコ依存症が多発している

 

当然のことながらパチンコ依存症者はパチンコ店の多い地域に多く発祥していると思います。ある研究者の報告ではパチンコ店の一キロ範囲の地域に依存症者が多発しているということです。水俣病でいえば水銀汚染が水俣病の発生源という風に、パチンコ依存症はパチンコ店が発生源となっているのです。わたしの地域にも、三十年前に越してきたときには一キロメートル以内に三軒の小規模のパチンコ店がありましたが現在は淘汰されて、五キロ以内に大型化したパチンコ店が三軒あります。車で十五分から二十分の範囲です。いまは、パチンコ店がどこにあろうと、車でいけます。外車に乗ってきた、他県ナンバーの人もいます。パチンコ店があることに問題があるのです。

 

退職

 

そして退職の時期が来ました。   

仕事は部長職で給料もそれなりにいただいていましたが、早期退職だと退職金がアップするので一年ほど早く退職しました。妻はもちろんのこと職場の仲間は突然のことに

 

 

都道府県別に見る犯罪件数と自殺者数     

犯罪件数(2016年) 自殺者数(2016年 パチ・スロ台数は再掲  警察庁統計資料から(16位以下略)

☆犯罪件数の単位数は100(100以下は切り捨て。参考に東京は134,600人)  ☆自殺者数は実数

順位  都道府県  犯罪件数    都道府県  自殺者数  パチ・スロ台数順位(再掲)

1位   東京都   134.6件      東京都    2220人      大坂府

2位   大阪府   122.1件      埼玉県    1254人      東京都

3位   愛知県    70.0件      大阪府    1238人              愛知県

4位   埼玉県    69.4件      神奈川県   1213人      埼玉県

5位   神奈川県   58.1件      愛知県    1180人      神奈川県

 ☆上位5まで同じ県が順位は違うが入っている。

 

6位   兵庫県    53.1件      千葉県    1038人       北海道

7位   千葉県    52.2件      北海道    1004人       福岡県

8位   福岡県    46.6件       兵庫県    942人       千葉県

9位   北海道    32.0件       福岡県    869人       兵庫県

10位  茨城県    26.6件       静岡県    682人       静岡県

 

11位  静岡県    22.0件       新潟県    545人       茨城県

12位  京都府    20.4件       茨城県    482人       広島県

13位  広島県    17.1件       広島県    455人       宮城県

14位  宮城県    16.4件       宮城県    418人       栃木県

15位  岐阜県    15.6件       群馬県    417人       群馬県

16位  新潟県    14.1件       京都府    399人       鹿児島県

   警察庁統計資料から(16位以下略)

☆犯罪件数の単位数は100(100以下は切り捨て。参考に東京は134,600人)  ☆自殺者数は実数

☆上位5まで同じ県が順位は違うが入っている。

43位 沖縄県   31.5台

44位 徳島県   30.5台

45位 山梨県    29台

 

46位 鳥取県   26.3台

47位 島根県   25.4台

合計4,525,009台  内パチンコ台数 2,833,133台  スロット台数 1,691,876台

☆全国都道府県パチンコおよびスロット合計台数の順位(数字単位は100)          2016年度 警視庁保安課調べ      ☆店舗数では在りません。

 

びっくりして、まだ働けるではないかと引き止めてくれましたが、わたしの頭の中は、退職後は毎日好きなパチンコを打って一日五千円ほど利益があがれば生活できると思っていました。これほどいい加減な考えは無いと思うのですが、なにしろ神経が麻痺しているのでそれでいけると錯覚していたのです。仕事も、そんな状態でしたから身に入りません。わたしは外面よく、仕事はそれなりにこなしていましたので、仲間の信頼は少しありました。自分でも、パチンコ依存症を恨みました。何でこんなに素敵な職場を早期退職しなければいけないのかと病気を恨みました。退職後は継続雇用の道もあったのです。給料はダウンしますが、快適な仕事があったはずです。 

自分の馬鹿さ加減が嫌になり、帰りには死のうと考えました。あの道をまっすぐ車で突進していけばコンクリートの壁にぶつかり、確実に死ねると思いました。けど、自殺にはいたりませんでした。退職を祝う会といいますかねぎらう会も開いていただきました。上司を始めあまり親交の無い仲間も参加してくれて、びっくりしたことを覚えています。退職後には仕事探しに明け暮れ、朝三時おきの軽トラックの荷物搬送とか、集金の仕事、認知症患者のグループホームの仕事をしてきました。

 

 自殺者数は平成一〇年から二三年まで毎年3万人を突破していました。一日に八二人が自殺していることになります。平成二九年は毎日五九人がどこかで自殺をしていました。毎日どこかで、これほどまでの人々が自殺をしているとはびっくりです。

 この自殺者の多くは、わたしは精神的な病のために自殺をしている人が多いと思っています。多くの自殺の原因はギャンブル、薬物、アルコール依存者で神経が壊された人たちだと思います。決して「自己責任」だ、個人の意思が弱かったからだと言う指摘は当たらないだろうと思っています。社会的原因が必ず影響しているのだと確信しています。とくに依存症は自殺にまで追い込む怖い病気です。わたしが自殺をしなかったのは、少し楽天的で地域にも音楽の仲間がいて、飲んだり騒いだりする時間もあったからだと思います。そして仕事が好きだった、と言うこともあります。どんな仕事でも、チャレンジしようという意欲がありました。もし孤独で、少しの余裕も無い生活をしていたら、間違いなく自殺を選んでいただろうと思います。

 

   妻の家出

 

 ある日、それも五月の快い日に、妻は長女のところに行くといって、わたしに車で駅まで送らせました。わたしが退職してから2年ほどたってからでしょうか。車の中では、じっと口をつぐんでいました。いったいそのときは何を考えていたのでしょうか。妻の頭は白髪で真っ白です。電車に乗るのは、杖を突きながらの歩行ですが何とか出かけることがまだできていました。悲痛な決意を持っているようでした。私は、なんだか

  

自殺の原因

 

家庭問題 親子関係の不和など) 3,179人

 健康問題 うつ病など)    10,778人

 経済生活問題 失業・倒産など) 3,464人

 勤務問題 (仕事の失敗など)   1,991人

 男女関係 (失恋など)       768人

 学校問題 (いじめなど)      329人

 その他 (後追い、孤独など)   1,172人

    厚生労働省警察庁「平成29年度中における自殺の状況」平成30年3月)より作成総数は21,681人(男性14,824人、女性6,857人)

 

いつもと違うなと思いましたが、2~3日で帰ってくるだろうと思っていました。ところがそれから9年近く帰ってきませんでした。まさに「ぷいと出たきり」です。家にはメモ書きがありました。「お金が無いと生活できません」と、それだけが書いてありました。結婚当時は何を言ってもケラケラ笑っていた妻でしたが、ここ30年ほどはと言うか、二人目の子どもができた頃からほとんど笑わなくなりました。しかしよく働き子どもを育ててくれました。妻が末のむすめを負ぶって、息子はわたしが抱いて、4人オートバイに乗って近くの沼や川へドライブに何回も行きました。まだ車の免許が無かったからです。そんな楽しいことが、ふっと頭をよぎりました。

 わたしも妻に散々苦労かけたし、別れるしかないなと思って離婚届けにはんこを押して渡しました。退職金は、一度途中でもらっていたので、多くはもらえません。またわたしが少し使ったものですから、家のローンを少し余分に返済したぐらいでなくなってしまいました。これから、お金が無いなりに二人でゆっくり過ごそうと、私は思っていました。きっぱりパチンコはやめようと考えていました。妻もそう思っていたようです。妻の笑いも少しは戻ってきていました。  

 

妻が“家出 ”した直接の原因は、こうです。

 退職後仕事は、週四日ほどの労働でしたから、暇が多くなってきました。退職金まで手を出したわたしは、退職後はきっぱりパチンコを止めようと思っていました。しばらくは妻ともうまく言っていて、外食にもちょくちょく行くようになりました。しかし、草ぼうぼうの庭を見ていると、そわそわし始めるのです。何もしないで家にいると、そわそわし始めて出かけたくなります。禁断症状が出始めたのです。庭の草を刈り取るとか、家の仕事は山ほどあるのですが、依存症患者はそういった家の仕事は好きになれません。草を刈るのは、狭い庭ですがバッタや虫などが飛び跳ねて、10センチ以上も草が伸びたときにしぶしぶ草刈をするのです。だから、夏になると近所の人はわが家の庭を見て「おくさんは足が悪いからしかたないにしても、だんなさんは働かない人ね」たなて、思っていたに違いありません。近くに住む方が、私の家の周りの草を刈ってくれたときもありました。今でも年に数回は伸びた草を刈ってくれます。こんなことも依存症の症状なのです。つまり、家のことは気が向かないとやら無いということです。

 パチンコ依存症も薬物やアルコール依存症と同じく禁断症状が出るのです。アルコール依存症とその症状は同じだと思います。わたしは、じっと庭を眺めて一日を過ごすということが、できないのです。もういてもたってもいられなくなるほどパチンコに行きたくなります。数日パチンコ屋に行かないとイライラ禁断症状が出てきます。アルコール依存症者が数日お酒を飲まないと、やっぱりイライラしてお酒を飲みたくなるのでしょう。ひどいときにはその禁断症状として妄想や暴力が発生するのと根はひとつです。

 

 その、イライラ感でうずうずしていたときに、私は妻に「ガソリンを入れてきたいのだがお金をくださいな」と頼みました。妻は「いまじゃないとだめなの?あとで一緒に行くから」といいますが、今いってくると、わたし。妻は「現金が無いから」と銀行のカードをよこしました。必要な経費は、どこからか出てくるのかわかりませんが、それほどいろいろ言わなくてすぐ出してくれます。いつも、えらいなと思いました。銀行カードは妻に渡していました。そのとき思いました。「頼むから一緒に来てくれ」と。自分ではもう、カードを手にしたらパチンコ店に行くことが見えていたからです。

「わたしのことはよくわかっていない。あれほどパチンコ依存症のことを勉強したのにもかかわらず、カードをわたしによこすなんて」とわたしが悪いのを、さも妻が悪いように思っていました。けどここが肝心なところだと思いました。もう病気なのですから、病人にお金を持たせて一人で外出させてはいけないのです。ちょっと嫌な言い方ですが、凶悪殺人犯に鉄砲を持たせて外に出させるのと同じです。パチンコ依存症は神経が壊れているので正常な判断よりも先に病気の症状が現れるのです。カードでも現金でも、手にしたらすぐパチンコ店に行くことを、です。依存症の医学的定義にもありましたように、自らの意思では、欲望に抵抗できないのです。

 

カードをキャッシュデスペンサーに入れると残高6万円がありました。

「へー、ずいぶん入っているな」と思いました。生活費です、いくら二人だけだといっても支払いなどを考えると6万円じゃあ一ヶ月持ちません。わたしは、すぐパチンコで勝って入金しておけばいい、と気楽な考えでパチンコ店に行きました。うまく行きませんでした。パチンコを知らない方もいられると思いますが、もうプロ級になると、一万円以内でその数倍も勝てるときがあります。わたしはスロット専門に遊んでいました。打ち始めは、数千円で大当たりが来るときがあります。そのコツは知っているつもりでした。勝ったときに取り替えれば、お金がなくなることはありません。しかし閉店までまだ5時間もあると思って、さらに勝って帰ろうと思って打ちつづけていると、たまっていたコインが無くなり、さらに一万円を使って閉店時間には、すっからかんになります。また明日おいでくださいとばかりに閉店間際にいつものように一回、大当たりが来ますが、現金に換えても5千円ほどにしかなりません。勝っていたときに取り替えておけばよかったなと悔やみます。3万円ほど勝っていて、それが負けて、持参の6万円も使ってしまう。計、9万円を半日近くで負けたことになります。勝っていても帰れないのが、依存症者の悲しい定めと言えます。

 そして妻は、よっぽど腹にすえたのでしょう「お金が無いと生活できません」と置メモし長女のところへ行ってしまいました。勝つまでやめないのが依存症のひとつの特徴でもあります。反対にいえば、負けるまで、ギャンブル依存症者は遊びつづけるのです。店員さんの給料を、毎月一人分カンパしていることになります。

 

  夢の実現へ

 

 それからあっという間にわたしは七〇歳になりました。

 私は、集金のアルバイト(よく使い込みをしなかったと、自分でも驚いています)、軽トラックでの配達(これは朝3時に起きて会社まで行くので3ヶ月で退社)、ホームヘルパーの資格を取って認知症利用者がいる老人ホームで働きました。この職場で介護福祉士の資格を取って、管理者の仕事もさせていただきました。また、ケアマネージャーの試験に合格して、今年(2018)の1月から5月まで研修やら実習を行い、やっと資格が発生しました。ケアマネージャーの取得にむけて、大変な勉強をしました。毎日、三~五時間パソコンで過去の問題に挑戦しました。車の中でも、無料でもらった受験に向けての講義を聴きました。なぜケアマネージャーの資格がほしかったかといえば、ひとつは体力をそれほど使わず仕事ができる(介護現場の仕事は、トイレ介助や入浴介助、清掃などで歳相応の体力の限界を感じてきました)ということです。先にとった、介護福祉士の国家資格も時給がヘルパー資格よりもいいからということでした。このときも、1年ほどかけて毎日過去問題に取り組み、合格したときはとてもうれしかったです。ケアマネージャーの資格が欲しかったもうひとつの理由は、無料の相談活動をしたかったからです。介護問題、障がい者問題、そしてギャンブル依存症で悩んでいる人の、無料の相談活動がしたかったからです。ケアマネージャー合格してから、半年間十七日かけての実務研修の講義・実習はかなり厳しいものでした。私の年代は少なく、二十代三十代の女性が圧倒的多かった。ついていくのが大変でした。この講義の中で、面接の仕方や相手の立場に立った相談活動などがあります。そうした、相談屋の人格と尊厳を守る、相談援助の専門職としての知識が欲しかったからです。無料相談で、月に一人でもいいパチンコ依存症者あるいは家族の悩みを聞いてあげたい、これが数年間持ち続けてきたわたしの夢でした。

6月(2018)に、資格者証が送られてきました。七〇歳でケアまねの資格を取ったというと、とても感心してくれます。男性で、パチンコ店員さんの給料を払う義務は、わたしにはもうありませんので。この手記は、わたしの大事な宝物になるでしょう。わたしの、パチンコ依存症の終活の整理事業でもあります。

 

 わたしも、病気しました

 

 妻が家出をしてから、数回帰ってきてくれました。もちろんその条件は、「パチンコを止めること」です。けど、いつも2~3日で帰ってしまいます。それから、5~6年顔を見ない日がつづきました。長男からは、ショートメールで「久しぶりに会ったお母さんは痩せてとても小さく見えました。家があるのにすめない。肩身に狭い居候生活」といったメールが届きました。わたしは、面倒ばかりかけているわたしのことなどすっかり忘れて、孫と遊びながら楽しく生活を送っているものだと、思っていました。私と結婚して以来、一番苦労の無いゆったりした生活を送っているものだと思っていました。わたしとは離れて長女と孫と、優しいお婿さんがいて、人生で一番幸福なときだとも、思っていました。 

わたしはというと、妻と別居中にさまざまな仕事をしてきました。そして病気をしました。

平成二十七年の春、当時働いていた職場で、めまいを起こしたのです。生まれてはじめての経験だと思います。本当に、くらっときて、壁に手をついて体を支えました。どうも気分がかんばしくないので、早退しました。気分が落ち着くと、またパチンコ屋に行き、お金がなくなれば給料日や年金支給日まで不貞寝をし、毎日カップラーメンで過ごしていました。しかし、「おかしい」と思いました。ときどき、めまいがおきました。この、はっきりした病気の原因がわかる前に、妻に「帰ってきて欲しい」と、ショートメールを打っていました。家も売ってしまい、貯金など無い生活をしていたときです。やっぱり、妻がいないと駄目だと思いました。寂しかったのだろうと思います。子どもも孫も、妻が家出してから顔を見せなくなりました。妻が居たからこそ「お母さん」と行って遊びに来てくれていたのです。パチンコ依存症の父親のところには、顔など出すはずはありません。

 わたしは妻に懇願しました。ショートメールを一〇〇通ほど打ちました。その内容は「もう二度と迷惑をかけない、パチンコはやめるから帰ってきて欲しい」と言うものでした。なんか、まだわたしは妻に惚れているようでした。好いてくれている女性はいましたが、飲み友達以外何者でもありませんでした。一緒になろうといえば、なってくれたかもわかりません。しかし、やっぱり病気であってもわたしは妻が一番でした。難病をおして、わたしの面倒をみてくれたのですから。こうした、帰ってきて欲しいメールを一~二か月間つづけました。その間、家を売ることも、妻に伝えました。その間でも一緒に暮らそうと、懇願しました。

 

  家を売る 任意売却

 

家を売ることにしました。売るといっても、6ヶ月以上もローンを払わず、銀行からの催促にも応えないものでしたから、家を競売にかけるとの裁判所からの通達が来てしまいました。けど、任意売却のほうがましと言う話もあり任意売却の手続きをしてしまいました。その、不動産は、よくやってくれましたが不透明さの残る会社でした。現在は保障会社に毎月二万円返済して、わが家は引き続き買い手の大家さんに家賃を払って住まわせてもらっています。保障会社からは、わたしの債権が転売されたことが知らされてきて転売先の保障会社からまとめて返済できるいい方法がある、といった怪しい電話もありました。妻は、家を売ることについて一言「仕方が無いのでは」とメールで返事が来ました。わたしの生命保険も解約をしてしまい、返ってきたお金も生活費とパチンコ代に消えました。だから死んでもお金が入りません。すべてお金になるようなものは残ってないことになります。わたしは徹底した、パチンコ依存症の重症例だと自分で思っています。

 子どもたちのふるさとも、わたしたちのふるさとも無くなりました。帰る場所は無くなりました。借家でも私たちの家には違いありませんが。

 

そしてわたしが六七歳の時に妻は帰ってきてくれました。なんか、息子が言うように56年見ないうちに、すっかり老婆になっていました。まさに、頬はこけて体重も40キロに満たないのではないかと思いました。杖で歩くのにも前より慎重になっていました。長女は妻に良くしてくれました、広い部屋を一室、妻のために用意してくれました。孫も妻によくなついていて、だんなさん側の両親も近くにいて、妻にいろいろと面倒を見てくれました。わたしと別れていた期間が一番妻にとって幸せなときだと、私は思っていました。しかし長男が言うように、やつれきっていました。けど、わたしは喜びました。何で、散々苦しめ、迷惑かけたわたしのところに戻ってきたのだろうと、今でも不思議です。

 

妻が帰ってきてすぐ、わたしの体調がよくないので一緒に病院に行ってもらいました。めまいや体重が激減、散歩もできないといった症状が出ました。病院で検査して、医師はすぐ地域のセンター病院宛の紹介状を書いてくれました。私は「家からも近いこの病院で治療がしたい」と医師に伝えましたが、ここでは治療ができないと言うことでした。とにかくすぐ行って下さいと意思は妻に伝えました。わたしは、すでに意識が朦朧としていたようで、医師と妻のやり取りは覚えていません。すぐと言われたので、なんで?と思いながら大きな病院に行きました。運転はわたしがしました。最近、医療をテーマにしたテレビドラマにやたらと出る病院です。私は、ストレッチャーに乗せられ(しっかり歩けるのにと思っていました)救急室に運ばれて、しばらく待っていると即入院と言うことになりました。「今すぐですか?」と医師に聞きました。「予定があるのでしばらくしてからではだめですか」と聞いても、駄目ですといわれました。

 

診断結果は、重度な糖尿病でした。そのとき、わたしの血糖値は700を超えていて、ヘモグロビンA1cは15をこえていました。血糖値は通常90~110でA1c4.65.2が健康人の値でした。84を超えると合併症の危険が発生します。もうわたしの検査値は、死んでいてもおかしくない状態でした。いわゆる重度の糖尿病でした。病院の栄養士さんも、この入院患者とはどのような人間か、見に来たそうです。わたしは眠っていてわかりませんでしたが。普通のはげたおっさんがベッドで眠っているとしか、思わなかったに違いありません。退院後には早速、合併症も現れました。白内障や、急激な難聴、両下肢の痺れや痛みなどです。

入院してすぐに点滴治療、食事制限が始まりました。味の無い、おかゆの食事には参りました。

その間、妻はと言うと市役所に出向き高額医療費の申請に行ったり入院書類の手続きをしたりと、おぼつかない足取りでめまぐるしく働いてくれました。わたしは入院2日ほどして正気に戻りました。ここはどこだ、確か妻が帰っていたはずだなどと考えました。ガラ系の携帯で「いまどこ?」と妻にメールを打ちました。「家」とそっけない返事が返ってきました。何だ、長女のところか、と思いました。「どこの家?」とメールしました。「馬鹿、○△の家」と帰ってきました。わたしは、涙を流して喜びました。なんだ、うちに帰ってきていたのか、と喜びました。妻は命の恩人になったのです。

 

入院中の検査で、今度は大腸がんが見つかってしまいました。大腸内視鏡の検査で医師ははっきりその場で、「見てください。大腸がんです」とこともなげに言い切りました。わたしはというと、それほど驚くことも無く「ずいぶんと大きいな」としか考えませんでした。これまでの、パチンコ遊びの罰かのように、大腸をふさぐほどの大きな腫瘍でした。糖尿病の治療が終わって一ヵ月後、大腸がんの手術を行いました。

腫瘍の細胞診断の結果、悪いものは見つからず、腫瘍の大きさにかかわらず早期がんということで、まあ、ほっとしました。楽天的で、わるいようには考えないわたしですが、ちょっと安心しました。が、糖尿病については、いわゆる“末期状態 ”だったので、前にも書きましたが、いっぺんに合併症が表れました。白内障、高血圧、末梢神経の痺れなどです。難聴もひどくなり、虫歯も一気にガタが来ました。白内障については、レーザー治療や目玉に注射などの手術を数回行い、まだ改善が見られなければ注射をしようということになっています。来月(2018.7)にもレーザー治療があります。最初の目玉の治療費、レーザー治療と注射はそれぞれ約五万円の医療費を支払いました。このような、医療費の高い治療をしているにもかかわらず、よい成果は上がっていません。白内障は改善して、テレビのテロップは読めるようになりました、しかし、ゆがみが少しあって、細かな数字などは読みづらくなっています、医師は、再度、レーザーの手術を検討しましょうといっています。わたしは、もう嫌だなと思っています。二割負担でも一万円以上の治療費がかかりましたので。歯科も虫歯の治療やら抜歯、入れ歯の作成などずいぶんとお金がかかりました。

入院治療費の支払い、そして眼科の支払い、歯科の支払い、耳鼻科の支払いと68歳になるまで病気と言う病気はしてこなかったわたしですが、七〇歳を前に病気のオンパレードになりました。毎月の通院の医療費は、薬代をふくめ、2万円以上になりました。とくに糖尿病の薬や神経のしびれのための薬などで3割負担だったわたしは、一度で2万五千円もの支払いになりました。糖尿病のインシュリンはとにかく高い薬剤です。妻が帰ってなければ、わたしは治療を中断していたに違いありません。このたくさんの医療費支払い、何でこんなにお金があったの、といまでも謎です。妻には聞いていません。

で、現在も内科、外科、眼科通院中です。歯科は中断中です。外科は、次回8月(2018)の経過観察ですが、このときレントゲンはもちろん内視鏡の検査、CT検査を行います。医療費が70歳から二割負担になったのですこしは楽になりましたがそれでも一万円はかかると思います。そのつど妻から医療費をもらっていきますが、最近ではそのままパチンコに行くと言うことはなくなりました。(いや、一度だけあったかと思います)

糖尿病は、もちろんパチンコ依存症からの贈りものです。休みの日には、甘いコーヒーを飲みながらパチンコを打ち、しかも昼食はとらずでは糖尿病になるはずです。パチンコ依存症は、こんな大きな病気と医療費の支出のプレゼントをわたしにしてくれました。

外来の通院医療費は、大変な負担金が苦になります。月、5万5千円以上は還付金として戻ってはきますが、とりあえず自分で準備しなければなりません。だから、眼科、外科、内科など通院日は、同じ月に集中するように予定を入れます。そうすると、合計金額が大きくなるので還付金が発生します。4万円も帰ってきたときもあります。

 

 

ギャンブル依存症で思うこと

 

パチンコ依存症の症状について、重傷の依存症であるわたしが言うのですから、間違いありません。

そしてわたしの経験から、パチンコ依存症の予防と “治療”について考えて行きたいと思います。正直、わたしはまだパチンコ依存症を克服していません。しかし二か月パチンコをしていません。闇金融までに手を出して(10日ごとの返金=やみ金とは知らず借りたこともあった。借りた2週間後に職場まで電話がかかり、早く金をもってこいと言われました。怖くなり全額返しました)お金を借りてパチンコに行こうなどと、そういうことはしなくなりました。妻は年上なので、やたらとわたしを指図しますが、わたしの要求については、それなりに応えてくれます。姉さん女房の、典型のようです。そこにわたしの甘えがなかなか拭い去れなかったということもあります。

 

私は今でも依存症から脱却していないと言いましたが、先月(2018・4)の話です。年金からもらった小遣い(3万円)で、6万円勝ちました。これで、再来月の年金までの小遣い(ガソリン代や、ケアマネージャー研修のための交通費、昼食代、コーヒー代、できれば内科・外科の医療費)にしようと思いました。このときは友人から2万円の借金と、大事な楽器を質屋から引き出す費用3万円も十分あるとおもっていまいした。妻にわからないように、引き出しに6万円をしまいました。

パチンコもこれで最後にしたいと考えていました。しかし、またイライラ病です。引き出しを開いたり閉めたり、何回もお金を数えたり、いったい何をしているのかとおかしな行動をしてました。お金を見ていたらもうそのお金を全額財布に入れてパチンコに行ってしまいました。引き出しに入っていたのは数日間だけでした。妻は足が悪くて、こごんで何かをやるということができません。

 

楽器がないと、ライブに向けた練習に参加できません。事実、今日は練習の日なのですが、楽器が無くて参加できません。大好きな音楽なのですが、練習に参加できなくて泣いています。わたしは重要なポジションなので、仲間に迷惑をかけているのです。バンドを作って演奏をする、十代ごろからの夢でした。退職したら、親父バンドを作ろうと現役時代から思っていました。もしこの文章が世に出て、バンド仲間が読んだら、もちろんわたしだと断定しきっとびっくりするでしょう。徹底的にさげすむでしょう。なにしろ、パチンコ依存症の恐ろしさを知らないのですから。しかし、自分のプリンターで印刷してでも、同じ悩みを持ったパチンコ依存症者に読んでもらいたいと考えています。とにかく、依存症の恐ろしさを、できるだけ多くの人と共有したいのです。

 

質屋さんには、妻と一緒に3回ほど楽器を引き出しにいきました。わたしにお金を渡すと、また遊びに行ってしまうからです。妻に懇願して、楽器を引き出してもらったのです。「もうこれで終わりにしてよね」と、そのつど言われました。楽器はアルトサックスです。質店の店主とは顔見知りになり、楽器を手渡すと軽くうなずいて、3万円を用意してくれました。「今日は二万円でいいです」というと、びっくりしたような顔をします。事前の電話で、1時間ほど遅くまで開いてもらっていたり、早めに開けてもらったりしました。ほぼ、毎月のように楽器を質屋に預けました。ほめられたものではありません。妻が家出をしてから、8年ほど質屋通いをしました。65年前、母親と質屋に行ったのと、まったく同じです。DNAが影響するのでしょうか。俗に言う、遺伝?そんな馬鹿なことありませんよねパチンコ依存症はパチンコをして発症したもので、病気です。たまたま父親と同じ病気になったということです。

 

家族と

一緒に買い物に行きましょう

独身者は病院へ

 

パチンコ依存症の家族が、その病人である夫や子どもが、お金を見てイライラしているなと思ったら、声をかけて一緒にどこかに出かけましょう。そのさい、お願い形式がよいでしょう。「買い物に行きたいのですが一緒に行って下さい」とか「これ食べたいのだけど一緒に食べに行ってくれませんか」が効果的だと思います。わたしが大金を持って出かける前に、妻からそのように言われたら「今じゃないと駄目なのか。しかたがないな」といって一緒に出かけるでしょう。むしろ、パチンコ依存症者はそれを願っていると思います。

本当にごくごく最近の話です。わたしが妻との買い物で驚いたのは、たった三千円の買い物でポリ袋いっぱいでそれもふた袋も三袋もあったということです。パチンカーにしてみれば、たったの三千円なのです。三千円ぐらい勝っても面白くないという、あの三千円です。三日分も四日分もの食料が買えたのです。お菓子も買えました。本当に、たった!三千円でこれほどまで買えるのかと、感動したことを覚えています。一人で居たときは、カップ麺を買いだめして、カップ麺を食べていました。パチンコ依存症はお金の感覚がまったくといっていいほどありませんから、パチンコで3万円とか五万円負けても「今度がんばれば言いや」と思い込んでしまうのです。千円二千円の重みを知りました。パチンコ依存症には、お金の価値をしっかり認識させることが大事です。

 

独身の人は?家族のいない人は?一人暮らしの人は?毎日パチンコに行く時間があったら、そうですね、犬を飼ったらいいのではないでしょうか。とくに年配のパチンカーはパチンコに行きたくなったら犬と一緒に散歩に行くのです。日中、時間がある人はぜひ、地域にある、さまざまなサークル、カラオケとか川柳の会とかに入って活動したらどうでしょうか。わたしの友人に、九つもサークルに入っている人がいます。卓球、太極拳、ダンス、カラオケ、川柳、マージャン、音楽、後は忘れましたが、暇がまったくといっていいほど、無い友人です。わたしはいつもうらやましく見ています。

わたしは、悲しい失敗もあります。犬を飼っていました。シェットランドシープドッグというかわいい犬でした。娘が通学で使っていたスーパーカブにのって私は犬を散歩に連れて行きました。オートバイで犬を引っ張っていきました。行く先はパチンコ屋です。ゆっくり走っていきました。何回かそんなことを繰り返しました。犬は、自転車置き場に一日中つないでいました。ある日、オートバイで一緒に走っているときに、途中で座り込んでしまいました。病気だったのです。犬は病気だからと言って、飼い主の命令には逆らえませんから。妻と娘が連れて行った犬猫病院で、大きな回虫が見つかりました。手術をしてもらいました。そしてしばらくして死にました。犬を飼うのもよしあしですが、イライラしたら、歩いて散歩をするのもいいでしょう。しかし、基本は治療を受けることです。専門医による依存症の治療は、 “絶対 ”必要です。

 

家族の誰かがパチンコ依存症でイライラしているのを見たら、ぜひ一緒に買い物に行ってあげてください。連れて行かれる依存症者は、必ず大きな発見があるはずです。もちろんそれには、家族での話し合いが大切です。パチンコ依存症は、重症化するにつけて、誰かに助けを求めています。だからできることなら、依存症患者も一緒に話しに加わってもらい、パチンコ行きたいサインが出たら強引にでも買い物に連れて出すことの了解をとっておくことです。買い物ではなくてもいいのです。とにかく一緒にいることを、考えるのです。いつも、家族が一緒のいることです。

サラリーマン家族にとっては、約束をすることが効果的というか有効です。帰宅する時間を聞いておくのです。帰宅時間に、食事とかいろんな準備があるはずです。だから、帰宅時間を聞いて時には迎えに行くことも考えたらいいのです。共働きでしたらどこかで待ち合わせをして、一緒に帰ったらいいのです。とにかくパチンコに行かなくてすむように、いつも一緒にいるように仕向けるのです。本当に、愛する夫や子どもであったら、そのくらいの苦労はしたほうがいいでしょう。女性が依存症の場合もあります。夫や親はつねに一緒にいてあげることを考えるのです。

パチンコに行きたくなったら、一緒にいて欲しい、一緒にいてあげるという、お互いが了解しておくことがいいと思います。そのためには、家族で話し合うということです。わたしは子どもたちと、一回だけ話し合ったことがあります。話し合いというか、説教をされたわけです。これを、何回でも繰り返してやることだと思っています。会議の主催者、つまり妻だったり親だったりしますが、「議題、パチンコについて」というかたぐるしいものではなく、パチンコの楽しさを語ってもらってもいいと思います。むしろ、それが重要かと思います。あるいは、どんな機種が楽しいのか、スロットとパチンコはどう違うのかとかなど、聞く側は知りたいことをどんなことで聞いたらいいのです。食事のとき、月に一回は、「聞きたいこと」を聞いたらいいのです。お金が無い、生活が苦しい、何で家庭を返りみないのか、といった批判や攻撃は逆効果になります。わたしがそうでしたから。好んで話す内容を、考えることです。また、負けたお金は北朝鮮行って核開発に使われているかもしれない、などとちょっと高尚な話もいいと思います。パチンコ依存症は、病気が進行すればするほど「家族に申し訳ない」と苦しんでいるのは本当です。

事故や事件を起こす前に、“さりげないパチンコの話し会議”をしてください。1年でも2年でも、繰り返し行うことです。こづかいの範囲であれば、パチンコにいってもいいという、寛容さが基本であることを忘れないでください。依存症患者は、いつか家族の愛に負けるはずです。また同時に、医療機関にかかることをすすめることです。最初から、“病気だから病院に行って”、では、必ずといっていいほど反発します。今のわたしでさえ、病院に行って相談することに躊躇しているのですから。自然に「病院に行ってもいいか」と思うようになるには、長い年月がかかるかもしれません。借金苦で家や家族を失う前に、あるいは大きな事故を起こす前に、家族の愛の力でパチンコ依存症は回復していると確信します。 

 

 

一人暮らしの方は、通院して治療を受けることをすすめます。ほとんどすべての依存症対応の専門は、精神科です。近くにあるメンタルクリニックをネットででも調べていくことをすすめます。風邪薬をもらいに行くぐらいの軽い気持ちで治療を受けることが大切です。そして効果的な方法として、手帳やスマートフォンにパチンコをした日時、使ったお金、負けた金額をメモすることです。これを、パチンコをした日には必ずメモすることが有効です。毎月、計算してください。わたしは、そういう努力をしてきませんでした。教えてくれる人もいませんでした。3年も、メモを続ければ自分がいくらパチンコで負けたか一目瞭然となります。100万円とかあるいは200万円にも達しているかもしれません。勝っているかもわかりません。勝っているのなら、その調子でパチンコをつづけたらいいでしょう。わたしは、そういうパチンカーがいたら教えて欲しいと思います。ネットで、パチプロの話がよく出ていますが、パチンコで優雅な生活をしているという話は、まゆつば物だとわたしは断言できます。また、わたしのように、洗いざらいぶちまけて、手記にしてみるのも効果的です。“絶対 ”といっていいほど、パチンコに行くのが嫌になります。そうしたら、回復は目にみえたのも同然です。

 

働いていたわたしが二〇代のころ、本屋で詩の雑誌をみました。そこには、「パチンコのうた」という作品がありました。パチンコ依存症が進行して行った初期の頃のわたしの姿を見るようでした。今思えば、その作品は文章では言い表せないパチンコ依存に向かっていく男たちの状況が生き生きと描かれていました。五十年ちかくたった今も大事にとっておきました。

次のような作品です。

 

  

 

パチンコのうた

 

      枕木一平

 

きょうはかならずとってやる!

 男たちはひそかにそう決意して戸の開かれるのを待った

 玉を穴に入れたがってる男たち

 かんマーチにこころをかきたてられた男たち

 所の戸が同時に開かれると

 男達はこころがまりのようになだれこんだ

 

 親ゆびがはじかれると

 ガラスのむこう側で玉がはねる

 玉がとびちる

 岩にたたきつけられた波のしぶきのように

 そうして男たちは

 断崖のまえに立つような姿勢で挑んでみる

 波しぶきと時間とじぶんと

 徒労であったかなかったかの結果について

 

 男たちにとってガラスのむこう側の世界は非常にみえた

 玉がじぶんのおもったように穴にとびこむと

 男たちはきまったようにこころをおどらせ

 はなうたをくちにする

 玉の入りがおもわしくないと

 男たちは台をたた

 じぶんじしんにむかってぐちをきかせ

 

 男たちにとって玉はタバコであり

 ヅメでありコーヒーであり

 ときには歯ぶらしやせっけんの日用品であり

 ナマかわるときもあった

 だから

 いつしか男たち台にむかう姿勢は

 食って生きてゆくための労働にさえおもえて

 絶対にけられないしゅうねんぶかさを

 身につけてしまっていた

 

 二百円で打ち止めの予定が

千円でもとだけは取り返したくなり

 二千円もやられると

 もはや一週間ぶんのタバコでもいいからと

 ひにくにも反比例してゆく

 男たちの期待

 そうして 一日

 日曜日の太陽ははやくも西にかたむき

 時間がだんだんなくなってゆくように

 男たちの期待はむなしく小さくなってゆき

 そして 消え

 もう二度とここにはこないぞ 

 はらのなかでちかったおとこたちではあったが

 ほたるの光の

 哀愁帯びメロディをききながら

 打止めなった台の

 番号のいくつかを

 はっきりと頭のなかにきざみつけて

 また

次の日曜日でかけてく男たちであった 

 

 

 

1970年ころはサラリーマンの平均給料が5万8000円と言うから一日2千円弱の生活費となります。家賃、電気代やガス・水道代などさまざまな生活費がかかります。当時のサラリーマンの小遣いは、数千円もあったらいいほうでしょう。タバコの値段はと言うと両切りピース10本入りで50円です。2千円負けると一日の生活費が消えます。現代のように千円や1万円札を挿入するのではなく100円札で玉を買い求めてパチンコを打つのです。千円もあれば、長い時間遊べた、よき時代でしたが。

このころは、電動式ではなく親指でばねをはじいて打つ方式です。一日立ちつづけて打ちつづけるのです。作者の枕木さんは、言うまでも無くパチンコ依存症になったといっていましたが、いまは脳梗塞をわずらい体調をくずしています。だから「好きでもパチンコは打てない、花屋の仕事も今年にたたんでしまった」と話していました。75歳になったといいます。後期高齢者になって、花屋さんを閉める決意をしたといいます。

今も昔も、パチンコ依存症者は生活に苦しんでいました。

 

 

私のことに戻ります。

これから、三つの目標を持って、歳をとっても“いい男 ”といわれるようにすがすがしく生きていくことです。

 

私はパチンコに力をいれるのはもうよそうかと思います。わたしの友人のように、いくつも活動をするという意欲はありません。しかし、八年前に発足した当時のように、熱意を持ち、練習もたっぷりしてバンド活動にもっと積極的になることです。

もうひとつは、無料の相談活動をすることです。すでに友人に、名刺の内容を書いたメールを送り、作ってもらうことにしました。友人は子ども向けの百科事典を一人で何年もかけて作ってしまう、そんな本作りをしています。わたしの要求に積極的に応じてくれました。表にはわたしの住所などとともに「無料相談 介護のこと 障がい者のこと ギャンブル依存症のこと」、裏面には「資格 介護福祉士 (知・精)サービス提供責任者 介護支援専門員 趣味・バンド活動 老人福祉施設や地域イベントで活躍。呼んでいただければ喜んでうかがいます」というものです。この友人は、わたしがパチンコ依存症と知っていて、とても心配してくれているたった一人の友人です。妻もよく知っている仲間です。

最後の三つ目は、しっかりと介護支援専門員(ケアマネージャー)の仕事をすることです。苦労して、手にした資格・仕事なので失いたくはありません。

わたしはいま、仕事探しをしています。二か月間無色だったので、家計は非常に苦しいのです。しかし、最近とても涙もろくなりました。テレビドラマでも、事件のニュースでも悲しいと涙が出てくるのです。うれしいとかいった感情がわき、花のにおいに感動するのです。妻の、テレビを見て笑っている顔を見るのが素敵に思えてきました。新聞も隅から隅まで読むようになりました。無気力無感動だったわたしに、変化が出てきました。これは、一つ一つ人間性が回復してきているのだろうと感じています。何よりも、いつもそばにいてくれた妻のお陰だと思っています。

    

 

最後にパチンコを止めるには

 

 

何度も言うようですが、パチンコ依存症の進行を食い止めるのは、一番は家族です。逃げる夫や子どもたちと、何度も何回も語り合うことだと確信しています。次の日にパチンコに行ったら、その次の日にまた話し合うのです。パチンコ(スロット)は、依存症という病気であることを家族で確認することです。その病気を起こさせているのは、パチンコでありスロットマシーンであるのです。パチンコ・スロットマシーンは病気を引き起こす、病気の感染源なのです。病気を引き起こす悪魔なのです。話し合いは、依存症の進行を食い止める、最大の薬だと思います。家族の言葉で、根気良く話し合うことだと確信しています。子どもを高校に行かせられない、大学にはもちろん行かせられない、家を失い家族をも失わせる、パチンコ(ギャンブル)依存症とはそういうものなのです。そして、朝、開店前に並ぶことは地獄への道だと思うことです。家族の言葉で思わせることです。家族は、マインドコントロールをかけてあげる、依存症者はマインドコントロールをかけてもらう、という共通認識に立てばいいのです。

親子喧嘩や夫婦喧嘩をする前に、コーヒーでも飲みながら家族で、世間話をするように、繰り返し話し合うことです。怒ったりなじったりしないで、笑って話し合うことだと、わたしの体験からそう確信しています。そうして欲しかったのです。

今のパチンコ店は、女性客のほうが男性客よりも多いと感じています。わたしが行くパチンコ店でも、そういう現象があります。若い女性を多く見受けられます。車中に子どもを残したまま、パチンコに没頭する。幼い子は脱水症状で死亡というニュースがよく聞かれました。そのような事件を起こさないためにも、家族の話し合いは必要です。 

 

家族の話しあいで、依存症患者が「パチンコに行くのが、嫌になったな」と思わせたら、しめたものだと思います。私の場合は、こうして手記を書くことで、自分のやってきた無責任さを恥、パチンコ依存症から脱却を目指します。いつでもどこにでも、わたしは苦しんでいる方のそばにいます。

最後に、作家で精神科医の箒木蓬生(ほうき・ほうせい)さんの「この病気はかかりやすいのに、治療は長期にわたる難しい病気です」を引用して終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

パチンコ依存症10大症状

 

 

☆噓をつく 約束を守らない

☆落ち着きが無い、イライラする

☆借金をする 小遣いがすぐになくなる

☆怒りっぽくなる短気になる 性格が変わる 

うつ状態になる 自殺願望が起きる 

☆お金の価値がわからなくなる

☆身近な人の健康を奪う 自分も病気になる

☆身だしなみが悪くなる 

☆不潔になる 風呂が嫌いになる

☆子どもと遊んであげない 

 

 

 

途中、囲みなど資料の入力の仕方がわからず読みにくくなってしまいました。読んでいただいた方ありがとう。